【REBELS ~The FINAL~ パンフレット寄稿コラム】荒波に翻弄されたREBELSの11年を振り返る。RebornしたKNOCK OUTから、反抗者の反攻が始まる。
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KNOCK OUT・REBELSの宮田充プロデューサーからの依頼で、「REBELS ~The FINAL~」(2月28日(日) 後楽園ホール)の大会パンフレットに、REBELSの11年間を総括したコラムを寄稿しました。
REBELSはこの大会で「封印」されましたが、そのスピリットは3月からのKNOCK OUTにも受け継がれます。新型コロナウイルスの影響で、会場にはキャパの半分しか観客が入れませんでした。会場に来られなかった格闘技ファン・選手の皆さんにも、REBELSの11年の歴史を改めて振り返りつつ、RebornしたKNOCK OUTをより味わってもらいたいと思い、BOUTREVIEWの誌面にもこのコラムを掲載することにしました。
やや厳しい表現がありながらも、公式パンフへの掲載を認めて下さったKNOCK OUT・REBELSのスタッフの皆さんに感謝いたします。
(文・井原芳徳/写真・井原芳徳、久保与志)
荒波に翻弄されたREBELSの11年を振り返る。
RebornしたKNOCK OUTから、反抗者の反攻が始まる。
『REBELS』は本日の「REBELS ~The FINAL~」をもって「封印」され、『KNOCK OUT』にイベントもベルトも「統合」される。昨年12月の記者会見で山口元気代表は、これまでのREBELSの歴史とKNOCK OUTに託す未来についてこう話した。
「REBELSは2010年1月23日にディファ有明で旗揚げしました。当時はK-1ルール全盛で、肘打ち、膝蹴りの良さを見せようというコンセプトの元、時代の流れに対抗しようという反骨心で旗揚げしました」
「色々変革の時期がありましたが、5月にブシロード様よりKNOCK OUTの事業を引継ぎました。コロナ禍もあり、来年どう生き残ろうと考えた結果、元K-1プロデューサーの宮田充さんに、REBELS・KNOCK OUTをメジャーにするために協力して欲しいと相談し、10月に宮田さんがプロデューサーになりました。宮田さんと議論し、10年続いたREBELSを一旦封印することにしました」
「REBELSは封印で、完全に消滅ではありません。またどこかで反骨心を持った選手が出て来ることも無きにしもあらずですし、根底の反骨心はKNOCK OUTでも流れると思います。淋しい気持ちは無く、前を向いています。REBELSで種をまいてきたものが、いよいよ来年度、花が開くときが来たのかなと思います」
rebelという英単語の意味は反逆者・反抗者。しかし業界の主流に、REBELSが思い通りに反逆・反抗し、望んだ流れを作れたかというとそうではなく、むしろ外部の荒波に翻弄され、険しい11年の道のりだった。
11年、REBELSはM-1とWPMF JAPANと協力してオランダのIT’S SHOWTIMEの日本大会を開催。14年の新生K-1旗揚げと同時期、RISEとBigbangと協力してBLADEを旗揚げ。中国のクンルンファイトとの合同興行も開いたが、いずれも長続きしなかった。K-1に対抗するかのように、16年にKNOCK OUTが旗揚げし、REBELSも多数の選手を送り込み、華々しいスタートを切ったが次第に失速。KNOCK OUTのエース候補だった那須川天心は、同時期に旗揚げしたRIZINで知名度を上げるが、KNOCK OUTには戻らず、ホームリングのRISEを活性化させた。18年夏、REBELSはパンクラスと「完全グループ化」し、立ち技とMMAのシナジー効果で格闘技業界に新たな流れを作ろうとした。だが翌年、パンクラスはシンガポールのONE Championshipと提携。REBELSの山口代表もKNOCK OUTの2代目プロデューサーに就任し、1年程で別々の道に進む。
19年1月、バウトレビューのインタビューで、山口氏はREBELSの約9年間の2度の転機について話していたが、いずれも他団体との交流関係にまつわるものだった。
「1回目の転機が、M-1とWPMF JAPANの体制が変わって、今までREBELSに出ていた選手がほぼ使えなくなった時でした」
「2回目の転機は日菜太ですね。2年前(17年)に日菜太をK-1に出したことで、RISEやシュートボクシングと気まずくなってしまった。でもあの時点ではどうしようもなかった。なんとか日菜太の世界への道をREBELSで作ろうと思ってやってきたけどダメだったんで」
外部の荒波に翻弄され続けたREBELSだが、リング上で繰り広げられた戦いも、そこに至るストーリーも、有名大会に負けず劣らずのクオリティだったことは、REBELSを見続けて来た人なら感じていることだろう。
旗揚げ時からタイ人との対抗戦を組み、後に梅野源治はムエタイの2大殿堂の1つ・ラジャダムナンスタジアムのライト級のベルトをREBELSのリング上で巻く。先述の「1回目の転機」の後、地方でも可能性のある選手を多数起用し、滋賀のヤスユキ、北海道のUMA、沖縄の中村広輝が個性的なファイトスタイルでリングに新たな色を添える。まだ無名だった大阪の皇治が参戦したのもその頃だ。以前、山口氏は「地方の選手はチケットが売れないので、ファンをつけようと思ったのがREBELS-TV(トークショーやロケ主体のネット配信番組)でした。今考えると、ちょっと時代が早すぎたのかなぁ」と話し苦笑していたが、選手を引き立たせる努力は他の広報手段でも共通した。14年のヤスユキと町田光の大一番ロード、17~18年の梅野のムエタイ王座奪還ロードでも、REBELSは選手たちの公開練習、インタビュー配信等をまめに行い、吉祥寺や神田での公開イベントに集まるファンも年々増加していた。
華やかな上位勢のアピールだけでなく、アマチュア大会や、1年かけてのリーグ戦などでも選手の育成を怠らなかった。現在は日菜太、T-98、スアレック、小笠原瑛作ら実績のある選手以外にも、ぱんちゃん璃奈、安本晴翔、老沼隆斗、鈴木千裕、龍聖といったスター候補が続々登場。冒頭の山口氏の発言で「REBELSで種をまいてきたものが、いよいよ花が開くときが来た」とあったが、その開花の前の春一番が、KNOCK OUTへの一本化と、経験豊富な宮田氏のプロデューサー就任だ。
昨年9月の宮田氏就任は驚きの人事だったが、その約1年半前、先述の19年1月のインタビュー時点で、山口氏は宮田氏の手腕を称えていた。
「日菜太が上がり始めてから、K-1さんとお付き合いするようになり、彼らの選手育成や興行のシステムがわかるようになって、しっかりしているな、全うに会社としてやろうとしているなって、学んだ部分は凄く多いですね」
つまり山口氏が言うREBELSの「2回目の転機」も「1回目の転機」で培ったノウハウを磨く材料となった。そして「2回目の転機」で生まれた宮田氏との接点は今回の転機につながる。宮田氏の就任会見で、山口氏は「僕が作って来たものを気にせず、ぶっ壊してもらって、選手にとって魅力的なリングにしてもらいたい」と話した。その言葉通り、Krushを造った宮田氏は、REBELSを“ぶっ壊し”KNOCK OUTに一本化する。
これも山口氏の冒頭の言葉通り「REBELS・KNOCK OUTをメジャーにするため」。結局、業界の荒波に打ち勝つには、自らが本流になるしかない。興行的にK-1・RISE・RIZINの後塵を拝し、正直なところ“負け組”だったREBELSだが、良質な興行を届け続けたgood loserだった。そして今、手を差し伸べるのが、一度沈んだK-1を“勝ち組”コンテンツに再生させた元グッドルーザー代表・宮田氏だ。
宮田氏は全日本キック時代から観客本位の大会運営を続け、魔裟斗、小林聡、大月晴明、武尊らのプロ意識を覚醒させた。山口氏が模範にした宮田氏の手腕で、ベテランの引退ロードもスター候補の言動も広報戦略も一層輝き、興行的な成功にもつながるだろう。REBELSの名を捨て、実りの花を咲かせ、反抗者の反攻が始まる。
knock outという英語は「たたきのめす」「打ち勝つ」という元の意味から派生し、俗語的に「素晴らしい」「仰天させる」という意味でも使われる。判定でも後半の意味合いの試合ならファンも満足だ。だから選手は敗れてもgood loserになればいい。何糞と思うrebels精神で、次戦の反攻につなげ、君をナメた人達をknock outすればいい。そして山口氏と宮田氏も、それらの精神を胸に秘めつつ、君たちを花咲かせてくれるだろう。◆◆◆
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