アントニオ猪木氏が死去。モハメド・アリと“MMAの元祖”の一戦。弟子に佐山・前田・高田・船木。PRIDEのエグゼクティブ・プロデューサー時代も
MARTIAL WORLD PRESENTS GYM VILLAGE
センチャイムエタイジム中野
本場のムエタイ、教えます。初心者、ダイエット目的の方も大歓迎!まずは見学・体験を!
元プロレスラーで、76年にモハメド・アリと異種格闘技戦を行い、引退後も格闘技の大会をプロモートしたアントニオ猪木氏(本名・猪木寛至)が10月1日朝に死去した。79歳だった。
“世紀の凡戦”モハメド・アリ戦が“MMAの元祖”に。弟子たちは修斗、リングス、パンクラスを旗揚げ
猪木氏は1943年2月20日生まれ。ブラジル移住時に力道山にスカウトされプロレスラーとなり、力道山死去後はジャイアント馬場と共に日本のプロレス界の2大スターとして活躍。72年に新日本プロレスリングを旗揚げした。
1976年6月26日にはボクシングWBA・WBC統一世界ヘビー級王者・モハメド・アリとの異種格闘技戦を行い、3分15R戦い引き分けに終わった。ルールの縛りの多い中、猪木氏がアリのパンチを防御するため寝転んだまま、アリの足をコツコツ蹴り続ける、のちに「猪木アリ状態」と呼ばれる膠着状態が続き、当時は「世紀の凡戦」等との非難を浴びた。だが、93年にUFCが旗揚げし、バーリ・ドゥード(ポルトガル語で「なんでもあり」)が現代のMMA(Mixed Martial Arts)の形に整備・進化し世界規模で浸透すると、総合格闘技の元祖の一戦だったとして再評価されるようになった。
後に修斗を旗揚げした佐山聡氏、UWF(第2期)とリングスを旗揚げした前田日明氏、UWFインターナショナルと初期PRIDEの主力として活躍した高田延彦氏、パンクラスの旗揚げメンバーだった船木誠勝・鈴木みのるも、新日本時代の猪木氏の弟子にあたり、猪木氏が格闘技に接近した70年代後期の路線に影響を受けた選手たちだ。さらにその系譜にある数多くの人たちが現在の日本のMMA界の選手・指導者として活躍している。
PRIDE、イノキボンバイエ、IGFで格闘技界に関与。リョート・マチダはUFC王者に
98年にプロレス引退後、2000年からPRIDEのエグゼクティブ・プロデューサーを務め、大会の盛り上げ役に。藤田和之ら新日本プロレスの選手を中心に「猪木軍」を組み、K-1勢との対抗戦でも話題を呼んだ。後にUFCライトヘビー級王者となるリョート・マチダをブラジルから呼び寄せキャリア初期の経験を積ませたのも猪木氏だった(日本でのリングネームはLYOTO)。
だが03年の大晦日にPRIDEに対抗してイノキボンバイエを開催するも、興行面でも日本テレビでの視聴率でも苦戦した上、エメリヤーエンコ・ヒョードルらの参戦を巡り、国内MMA業界にも軋轢を生んだ。
07年にはイノキ・ゲノム・フェデレーション(IGF)を旗揚げし、プロレス主体の大会の中でMMAの試合も組み、柔道五輪金メダリストの石井慧が主力として活躍した。
プロレスラー時代の89年から6年、引退後の13年から6年の2期、参議院議員を務め、日本史上初のプロレスラー出身の国会議員としても話題を呼んだ。20年7月には心臓の難病で闘病中であることを公表し、入院生活を続けていたが、22年10月1日午前7時40分、都内の自宅で心不全により亡くなった。猪木氏のマネジメント会社の猪木元気工場(IGF)によると、故人の遺志により通夜及び葬儀は家族葬で執り行われ、関係者と相談の上で後日の「お別れの会」の開催を計画しているという。