沢村忠に真空を飛ばせた男―昭和のプロモーター・野口修 評伝― 著者・細田昌志インタビュー【Part3/3】「逆に沢村忠の評価が上がりましたよ。」
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今から約50年前に「キックボクシング」を命名・創設し、沢村忠をスター選手にし、歌手の五木ひろしを世に送り出した伝説のプロモーター・野口修の生涯を描いた「沢村忠に真空を飛ばせた男―昭和のプロモーター・野口修 評伝―」(新潮社)。著者である細田昌志氏へのインタビュー最終回(第3弾)をお届けする。(聞き手・写真:井原芳徳)
【Part3/3】「逆に沢村忠の評価が上がりましたよ。」
(→インタビューのPart1/3はこちら) (→Part2/3はこちら)
――細田さんは野口修本を出す前、2012年に「坂本龍馬はいなかった」、2017年に「ミュージシャンはなぜ糟糠の妻を捨てるのか」というノンフィクションを出されていました。
細田 「ミュージシャン~」は3か月で書き上げました。野口本の取材をしていて、気が狂いそうになったんですよ(笑)。右翼・キック・空手の膨大な資料や人脈と格闘しているうちに、袋小路に入って、ウワーッって。「ミュージシャン~」は野口本のことを一旦忘れて脳内をリフレッシュするために書いた感じでした。
――資料集めは国会図書館ですか?
細田 はい。永田町の駅から地上に出てすぐで、うちからも行きやすいんで。
――なおかつテレビ番組の構成作家の仕事をされていますから、行きやすいですよね。
細田 (TBSのある)赤坂や(テレビ朝日のある)六本木からもすぐですしね。国会図書館にはテレビのADがいっぱいいますよ。
――テレビの番組の出演依頼や情報・資料集めで色んな人にアポイントを取ることは、テレビ番組の作家やADの人達が日頃よくすることですし、普通のライターよりも細田さんは当時のテレビ局の関係者のツテが辿りやすかったと思いました。
細田 あとやっぱり、テレビで喋る仕事をやっていたのもデカかったです。取材相手からいかに発言を引き出すか。ステージですよ。ヨイショ!って。相槌も話の振り方も。(プロレス・格闘技専門チャンネルの)サムライTVの格闘技番組のキャスターをやっていた経験がようやく活きましたね(笑)。
――ウクリッド・サラサスさん(JBCが認可したプロボクシングの元レフェリーで、それ以前はキックボクシングのレフェリーを8年勤めていたタイ人)、藤本勲さん(キックボクシング発祥のジムである目黒ジム出身で沢村忠の後輩。その後同ジムを継承し藤本ジムの会長を務めた)といった人達からも、沢村忠について貴重な証言を集めています。
細田 藤本会長、この本が出る直前に亡くなられてしまって。
――2016年に亡くなった野口修しかり、証言を押さえたギリギリのタイミングですよね。
細田 藤本会長が当初、沢村忠の試合を八百長と思っていなかったという証言に驚きました。ある時、タイ人選手が当たってもいないのに倒れたのを見て愕然としたと。下の選手たちは知らなかったんですよね。それで藤本会長がある日、目黒ジムのマネージャーに「沢村さんと試合を組んで下さい。真剣勝負でやらせて下さい」って直訴して、田村潔司みたいなことを言ったら、当然断られて、それを伝え聞いた沢村忠に半年間口をきいてもらえなくなったという。
――晩年の藤本会長の穏やかなイメージからは想像もつかない過激な発言で驚きました。沢村の1試合1試合の日付や場所や結果を列挙し、同じタイ人選手が沢村との27試合全てでKO負けしているといった疑問点を野口さんに突き付ける「第十八章 八百長」でのやりとりが、この本の最大の山場だと思うのですが、いきなり核心は突かなかったですよね?
細田 あのやりとりまでに、所々で聞いていたんですよね。けどいつも否定するんですよ。沢村について聞くと「あいつは裏切った」「恩知らずだ」って、悪口ばかり言うから、きっと八百長のことを喋ってくれると思って、僕も「そうですよね~。裏切者ですよね~」って調子に乗せて「沢村の試合も八百長なんでしょ~?」なんて軽く振っても、「いや、それは違う。真剣勝負だ!」って否定するんです。日によって気分が変わるかなと思って、話を振ってもやっぱり否定するので、これは一回、膝を突き合わせて、ちゃんと沢村の戦績データを提示して、このことだけを聞く日を作ろうと思ったんです。それが2011年8月9日、真夏の暑い日、いつも野口さんと会っていた駒沢公園のカフェでした。初めて話してから1年ぐらい経っていましたね。
――どれぐらいの頻度で会っていたんですか?
細田 週2~3で会っていました。3か月で書き上げるつもりでしたから。坂本龍馬の本で5年ぐらいかけましたから、もうそんなにかけたくないと思っていたのに、まさか倍の10年かかるとは。タイで沢村と戦ったポンサワンに証言を聞いたのは2019年ですからね。ポンサワンがずっと見つからなかったんですけど、フェイスブックでタイのプームさんという方と出会って、やっと見つかったという。
――野口さんに八百長問題の核心に迫った話と同じ章に、ポンサワンの証言が出てきますけど、8年の時間差があったんですね。見つかり方が凄く現代的です。一方で国会図書館の資料漁りとか、古典的な手法も取りつつ。
細田 ポンサワンは僕が話を聞いた7か月後に亡くなったんですよ。彼も最初は口を割ってくれなくて、話題を変えて、目黒ジムのトレーナー時代はどんな生活をしていたとか、競馬やパチンコが面白かったとか、軽い話題から聞いて。話を聞いているうちに「目黒ジムでサームラは一番優秀な生徒だった」と言い出すから、「先生が生徒に負けるんですか?」って聞いたら「まずい」って表情になって、そこから喋ってくれたんですよね。
――野口さんは八百長については口が重かったんですけど、ボクシングのプロモーター時代の新聞記者や、日本レコード大賞の審査員にバラまいたお金については、額や手法について饒舌に語っていて、そのギャップにも驚きました。
細田 買収はみんなやっていたことで、恥ずかしさが無く、やるのが当然だ、って感覚なんでしょうね。でも今の時代、元U系のレスラーが平気で八百長について喋っているのに比べれば、口を割らない野口さんは純粋だなあと思いますよ。
――沢村の試合を銭湯で見た藤原敏男さんがキックを始めて、後に本場タイのラジャダムナンの王者になったりとか、沢村を主人公にしたアニメ「キックの鬼」をブラジルで見てフランシスコ・フィリオが空手を始め、極真とK-1で活躍したりとか、沢村のブームが後の多くの格闘家に影響を与えたことは確かです。沢村の引退が77年ですが、もし沢村がそれよりも5年以上前に他団体や後輩からの真剣勝負の要求を受けて、彼の威光がもっと早く落ちていたら、当時のキックボクシングのブームはどうなっていたんだろうとは思いました。
細田 間違いなくもっと早く衰退したでしょうね。
――そういった沢村ですが、じゃあ実力はどうだったのかというところも、サラサスさんや藤本さんの証言や、残っている映像を元に検証し、一定の評価をしていることも、この本では重要なポイントです。
細田 沢村の1966年のデビュー2戦目の相手・サマン・ソー・アディソンはフェイクを拒んで、沢村は4R KO負けしました。その後はタイ人相手のショーが続きましたが、目黒ジムでは誰よりも熱心に練習し、真剣勝負での自分の実力を試したくて、68年、タイのルンピニースタジアムでポンチャイ・チャイスリヤと真剣勝負をしました。現地での扱いはエキシビションマッチだったのではという検証を本ではしているんですけど、内容は真剣勝負そのものでした。ポンチャイのローとミドルをもらい続け、最後のほうは流されるんですけど、デビュー直後のサマン戦と比べてよくやっていて、2年での成長を感じましたね。逆に沢村の評価が上がりましたよ。
――いろんな人が沢村が練習の鬼で強かったと証言し、沢村も真剣勝負志向が強かったのですが、野口さんは興行主として、沢村の人気を落とさないために、絶対に真剣勝負はさせなかった。でもそれによってキックボクシングのブームは続いた。当時から半世紀近く経ち、一概に善悪で判断できるものではなく、キックボクシングが生まれた当時の関係者の膨大な量の証言が残され、中立に検証されたという点で、重要な本です。今のキックファンもぜひ読んで欲しいです。まあ、そういう話抜きでも、昭和のボクシング、キックボクシング、芸能界の群雄割拠の物語としてシンプルに楽しめましたね。野口修が沢村と同時期に手がけた歌手の五木ひろしのアメリカ進出の話も凄かったです。
細田 五木さんがもしアメリカで成功していたらどうなってたんでしょうね。もしあの頃、エルヴィス・プレスリーが死ななかったら、野口さんのその後の没落も無かったのかもなあ。
――戦前の右翼の話から始まり、最後はアメリカで失敗し、沢村は引退し、キックブームは終わり、競走馬でも失敗し、バブル時代に突入し…。本の終盤の野口さんの人生の急降下ストーリーも滅茶苦茶面白いので、ぜひとも最後まで読んで欲しいです。
◆細田さんインタビュー連載は以上です。細田さんはTwitter(@kotodamasashi)で沢村本の執筆エピソード、各媒体での紹介情報や読者の声をツイートしていますので、ぜひともフォローしてください。Amazonのレビューにも多数絶賛の声が寄せられていますので、本に興味を持った方は参考にしてみてください。(編集部:井原)
細田昌志著「沢村忠に真空を飛ばせた男―昭和のプロモーター・野口修 評伝―」紹介(新潮社の資料より)
◆内容
2016年3月31日に亡くなったプロモーター・野口修の生涯を描く。野口修の父野口進は「最高最大の豪傑ボクサー」と呼ばれた人気拳闘家。「元首相暗殺未遂事件」を起こした国士でもあったため、野口修は右翼人脈に囲まれた環境で育つ。
大学卒業後、家業のボクシングジムを継いで、プロモーター業に就いた修は、タイ式ボクシング(ムエタイ)からヒントを得た新しいスポーツ「キックボクシング」を創設。沢村忠を送り出し、巧みなメディア戦略で大ブームを巻き起こす。
さらに芸能界にも進出。無名のクラブ歌手をスカウトし「五木ひろし」と改名させ、日本レコード大賞を受賞。日本人歌手として初めてラスベガス公演まで行う。
数々の栄光とその裏で繰り広げられた葛藤を描きながら、野口修の数奇な人生と、共に刻まれた壮大な昭和裏面史を活写する。
◆目次
序章 日本初の格闘技プロモーター
第一章 最高最大の豪傑ボクサー
第二章 若槻礼次郎暗殺未遂事件
第三章 別れのブルース
第四章 新居浜
第五章 日本ボクシング使節団
第六章 幻の「パスカル・ペレス対三迫仁志」
第七章 プロモーター・野口修
第八章 散るべきときに散らざれば
第九章 死闘「ポーン・キングピッチ対野口恭」
第十章 弟
第十一章 佐郷屋留雄の戦後
第十二章 空手家・山田辰雄
第十三章 タイ式ボクシング対大山道場
第十四章 大山倍達との袂別
第十五章 日本初のキックボクシング興行
第十六章 沢村忠の真剣勝負
第十七章 真空飛び膝蹴り
第十八章 八百長
第十九章 山口洋子との出会い
第二十章 よこはま・たそがれ
第二十一章 野口ジム事件
第二十二章 一九七三年の賞レース
第二十三章 ラストマッチ
第二十四章 夢よもういちど
第二十五章 崩壊
終章 うそ
あとがき
参考文献
◆著者略歴
細田 昌志(ほそだ まさし) 1971年生まれ。CS・サムライTVの格闘技番組のキャスターをへて放送作家に転身。いくつかのTV、ラジオを担当し、雑誌やWebにも寄稿。著書に『坂本龍馬はいなかった』(彩図社・2012年)『ミュージシャンはなぜ糟糠の妻を捨てるのか』(イースト新書・2017年)。メールマガジン「水道橋博士のメルマ旬報」(博報堂ケトル)同人。
Twitter https://twitter.com/kotodamasashi