沢村忠に真空を飛ばせた男―昭和のプロモーター・野口修 評伝― 著者・細田昌志インタビュー【Part2/3】「野口修が金銭的に追い込まれていなければ、キックボクシングをやっていたんだろうか?」
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今から約50年前に「キックボクシング」を命名・創設し、沢村忠をスター選手にし、歌手の五木ひろしを世に送り出した伝説のプロモーター・野口修の生涯を描いた「沢村忠に真空を飛ばせた男―昭和のプロモーター・野口修 評伝―」(新潮社)。著者である細田昌志氏へのインタビュー第2弾をお届けする。(聞き手・写真:井原芳徳)
【Part2/3】「野口修が金銭的に追い込まれていなければ、キックボクシングをやっていたんだろうか?」
細田 井原さんは木村本(2011年に発売された増田俊也さんの「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」)は読みましたか?
――読んでいないです。「ゴング格闘技」の連載を断片的に読んだだけですね。あの分厚さに参って、読める時に読めばいいかなと思っていたら、忙しくて結局読まず今に至ります。興味が無いわけじゃなかったですけど、そこまではいいかな、ってのがあって。
細田 僕個人の主観で言うと、木村政彦個人や、柔道及び高専柔道、古流柔術からグレイシーを始めとするブラジリアン柔術の歴史を辿った本という印象が強いですね。圧倒的な読みごたえがありましたし、この本を書く上で影響は受けましたね。
――ただ細田さんの本に関しては、戦前戦後の政治史とも絡む話がふんだんに盛り込まれていると読む前に知って。基本的にそっちの話題が好きなんですよ。佐野眞一の「巨怪伝」(読売新聞を大新聞に育てた正力松太郎の評伝)は読んでいましたけど、かといって「阿片王」(満州の闇利権を制したA級戦犯・里見甫の評伝)は読んでいない。マニアではないですけど、そういう話題は大好きですね。
細田 NHKスペシャルで戦後の話とか山田孝之がよくやるじゃないですか。(21世紀に生きる若者が、戦後ゼロ年の東京にタイムスリップする「東京ブラックホール」など)
――この間のNスペのナベツネ(読売新聞グループ代表の渡邉恒雄)のロングインタビューは見ましたね。
細田 あれも面白かったです。ナベツネの体調が悪くて、続きがあるのかわからないみたいですが、もう94歳ですからね。この間、小松政夫(70年代から80年代にかけての人気コメディアン)が亡くなったばかりですし、どんどん昭和が遠くなります。
――野口修さんが亡くなったのも4年前、82歳。細田さんの約10年の取材活動の半ばあたりでした。ちゃんとその世代の、まとまった資料の無い方の証言を残された点で貴重な本です。
細田 野口さんと最後に話したのが2016年1月24日。1934年(昭和9年)1月24日に生まれなので、野口さんの最後の誕生日でした。野口さんに話を聞けたのは2010年から約6年です。でも思ったのが、20代から30代に何かを成し遂げて絶好調だと、余生が苦しいというか。
――20代からボクシングのプロモーターとして活躍していたんですよね。
細田 野口さんの弟の野口恭とタイ人のポーン・キングピッチの世界戦をまとめたのも26~7歳(試合は1962年(昭和37年)5月30日)ですから。考えたら大したもんですよ。今の時代の感覚したら若造ですよ。
――当時のボクシングジムの会長連の中でも若造なんですよね。父の進の事業を受け継いだとはいえ。
細田 帝拳の本田ジュニア、三迫ジュニア…。今でこそジュニアが多いですけど、ジュニアの走りみたいな人です。
――その後、ボクシング界から排斥されたことがきっかけで、タイのムエタイと日本の空手の対抗戦を「キックボクシング」と名付けてプロモートしました。
細田 タイのルンピニースタジアムで対抗戦をやったのが1964年(昭和39年)2月12日ですから、まだ30歳ですよ。野口恭とキングピッチの世界戦のファイトマネーの支払いで、闇ドル(違法な手段で円と交換されたドル)に手を出して逮捕されて、NET(今のテレビ朝日)のボクシング中継のレギュラー番組のプロモートから外され、今の価値で週300万円の定期収入を失いました。タイとのパイプがあったとはいえ、野口さんが金銭的に追い込まれていなければ、キックボクシングをやっていたんだろうかと思います。仮にやっても、たまにやる程度だったんでしょうね。三迫会長(野口修の父・進が終戦直後の新居浜で才能を見出し、東京で一流ボクサーに育て上げた三迫仁志)が言っていましたけど、お父さんが生きていたら、たぶんやらなかったでしょうね(父・進は1961年(昭和36年)に死去)。色んな偶然があの時期の野口家にあったからで、複雑な生い立ちなんですよね、キックボクシングは。
――野口修は日本拳法空手道の選手とムエタイの対抗戦を最初考えましたが実現せず、極真空手の選手との対抗戦になりましたが、その後関係が切れ、その2年後の日本初のキックボクシングの試合に剛柔流空手出身の沢村忠が抜擢されたわけですが、最初からトラブルが続きました。
細田 今の総合格闘技の原点のような、関節技や絞め技もあり、グローブをつけての顔面殴打ありの大会を後楽園ホールでやっていた日本拳法空手道が、もし最初にムエタイとの対抗戦を受けていたら、キックボクシングや、その後の総合格闘技はどうなっていたんだろうと思いますよね。1964年、57年前のルンピニーでの対抗戦に乗らなかったら、極真はここまでデカくなってなかったでしょう。石井(和義・正道会館)館長も「プロレスにだって、UWF的なものは生まれなかったと思うし、極真もあそこまで大きくならなかったでしょう。ということは、僕も空手を始めたかどうか判りません。そうなると、K-1もなかったってことになりますから」とおっしゃっていました。対抗戦での中村忠の勝利と、黒崎健時の敗北と、藤平昭雄のあの勝ち方を見ると、極真は時代に求められていた感じがします。
細田昌志著「沢村忠に真空を飛ばせた男―昭和のプロモーター・野口修 評伝―」紹介(新潮社の資料より)
◆内容
2016年3月31日に亡くなったプロモーター・野口修の生涯を描く。野口修の父野口進は「最高最大の豪傑ボクサー」と呼ばれた人気拳闘家。「元首相暗殺未遂事件」を起こした国士でもあったため、野口修は右翼人脈に囲まれた環境で育つ。
大学卒業後、家業のボクシングジムを継いで、プロモーター業に就いた修は、タイ式ボクシング(ムエタイ)からヒントを得た新しいスポーツ「キックボクシング」を創設。沢村忠を送り出し、巧みなメディア戦略で大ブームを巻き起こす。
さらに芸能界にも進出。無名のクラブ歌手をスカウトし「五木ひろし」と改名させ、日本レコード大賞を受賞。日本人歌手として初めてラスベガス公演まで行う。
数々の栄光とその裏で繰り広げられた葛藤を描きながら、野口修の数奇な人生と、共に刻まれた壮大な昭和裏面史を活写する。
◆目次
序章 日本初の格闘技プロモーター
第一章 最高最大の豪傑ボクサー
第二章 若槻礼次郎暗殺未遂事件
第三章 別れのブルース
第四章 新居浜
第五章 日本ボクシング使節団
第六章 幻の「パスカル・ペレス対三迫仁志」
第七章 プロモーター・野口修
第八章 散るべきときに散らざれば
第九章 死闘「ポーン・キングピッチ対野口恭」
第十章 弟
第十一章 佐郷屋留雄の戦後
第十二章 空手家・山田辰雄
第十三章 タイ式ボクシング対大山道場
第十四章 大山倍達との袂別
第十五章 日本初のキックボクシング興行
第十六章 沢村忠の真剣勝負
第十七章 真空飛び膝蹴り
第十八章 八百長
第十九章 山口洋子との出会い
第二十章 よこはま・たそがれ
第二十一章 野口ジム事件
第二十二章 一九七三年の賞レース
第二十三章 ラストマッチ
第二十四章 夢よもういちど
第二十五章 崩壊
終章 うそ
あとがき
参考文献
◆著者略歴
細田 昌志(ほそだ まさし) 1971年生まれ。CS・サムライTVの格闘技番組のキャスターをへて放送作家に転身。いくつかのTV、ラジオを担当し、雑誌やWebにも寄稿。著書に『坂本龍馬はいなかった』(彩図社・2012年)『ミュージシャンはなぜ糟糠の妻を捨てるのか』(イースト新書・2017年)。メールマガジン「水道橋博士のメルマ旬報」(博報堂ケトル)同人。
Twitter https://twitter.com/kotodamasashi