キックボクシング草創期のスター、“真空飛び膝蹴り”の沢村忠氏が死去
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1960年代後半から70年代前半までのキックボクシング草創期のスター選手だった沢村忠(本名・白羽秀樹)氏が3月26日に肺がんのため死去した。スポーツ報知や時事通信が4月1日に伝えた。78歳だった。
沢村氏は1943年1月5日、満州(現在の中国東北部)生まれ。子供の頃から剛柔流空手を学び、日本大学芸術学部映画科時代には俳優を目指していたが、キックボクシング創始者の野口修氏(2016年死去)と出会い、66年4月11日、大阪府立体育会館で行われた日本初のキックボクシング興行でキックボクサーとしてデビュー。TBSでの試合中継を通じて人気を高め、跳躍力の高さを活かした「真空飛び膝蹴り」でのKO勝ちを量産し、キックボクシングブームの中心人物となった。
梶原一騎氏が沢村氏の半生を描いた漫画「キックの鬼」が70年からTBSでアニメ化されると、人気に拍車がかかり、73年にはその年のプロ野球の3冠王を達成した王貞治氏らを抑え「日本プロスポーツ大賞」を獲得した。
だが76年7月2日、大阪での試合を最後に突如姿を消し、それから1年3カ月後に公の場に姿を現し、後楽園ホールで引退式が行われた。引退後は自動車整備工場等を経営。子供たちにキックボクシングを教えることはあったが、キックボクシング界に関わることはなかった。
人気絶頂期の沢村氏はプロレスラーのように全国を巡業し、月に何試合も行っていた。昨年発売された細田昌志著「沢村忠に真空を飛ばせた男―昭和のプロモーター・野口修 評伝―」(新潮社)によると、69年5月の月10試合全てがKO勝ちだったという。241戦232勝(228KO)5敗4分という戦績が通説となっているが、新聞等の資料に残っていない試合も多く、正確な通算戦績は不明で、500戦以上という説もある。
だがそのほとんどが、決められたかのように真空飛び膝蹴りで終わり、現存する映像でも対戦相手の不自然な倒れ方が確認できる。対戦相手のほとんどはタイ人で、同じ選手と連続で試合したり、所属する目黒ジムのタイ人トレーナーとの試合も多かった。実際、沢村氏の現役当時から、沢村氏のライバル団体の関係者が、沢村氏の試合内容を暗に批判することも少なくなかった。上記の「沢村忠に真空を飛ばせた男」で細田氏は、同じタイ人選手が沢村氏との27試合全てでKO負けしていること等の疑問点を、晩年の野口氏にぶつけたが、最後まで口を割らなかった。その他の多くの関係者からも疑惑を裏付けるような証言を得ていた細田氏だが、沢村氏本人からの証言を得ることができないまま、帰らぬ人となった。
しかし、野口氏がプロデュースし、沢村氏が体を張って牽引したキックボクシングブームは、日本人初のムエタイ・ラジャダムナンスタジアム王者となった藤原敏男氏をはじめ、多くの若者をキックボクシングの世界に吸い寄せる。彼らの後継者たちが現在のキックボクシングのリングで戦っており、沢村氏が今の武尊や那須川天心の活躍の源流を作った功労者だったことは間違いない。
K-1創始者の石井和義・正道会館館長は、沢村氏のデビューの2年前、64年2月12日にタイのルンピニースタジアムで行われた史上初のキックボクシング興行が「プロ格闘技の走り」だったと評し「プロレスにだって、UWF的なものは生まれなかったと思うし、極真もあそこまで大きくならなかったでしょう。ということは、僕も空手を始めたかどうか判りません。そうなると、K-1もなかったってことになりますから」と、細田氏の著書で話している。
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