3度のオリンピックに出場し、1992年、バルセロナオリンピック柔道78キロ級金メダル。
その他、全日本学生選手権、嘉納治五郎杯、世界選手権等タイトルを獲得する。
明治大柔道部の監督を務めていたが、2002年、柔道界からの引退し吉田道場を設立と同時にDynamite!へ参戦し
プロ格闘家デビューを果たす。
デビュー以来、ドン・フライ戦、佐竹雅昭戦を経て、「プロとは何か?」と考え続けたのだろうか。
ただ勝てばいいといった考えが見られなくなった田村潔司戦以降、ケンカさながらの熱い戦いを見せ、
それが返ってファイターとしての成長を促している。
柔道現役時代、そしてプロになってからと数多くの負傷歴がある満身創痍の状態のため多くの試合数はこなせないが、
柔道で培った最高峰の技術と精神力で、どんな相手にも立ち向かって行く様はファンの心を捉えて離さない。
所属事務所J-ROCKのプロモーション努力により、CMやテレビ等にも露出しお茶の間の人気も得る。
プロになってから全日本柔道連盟には疎外者とされているが、自らの柔道道場を開いたり、
「VIVA JUDO!」という特別柔道教室を企画開催するなど柔道の普及にも力を注いでいる。 |