高校から柔道を始め、明治大学一年生で世界選手権優勝を果たし大物ぶりを発揮する。
世界選手権では2階級制覇し、数々の偉業を成し遂げた。
しかし、金メダル確実と言われていたバルセロナオリンピックでは銀メダル。
1996年アトランタオリンピック95kg超級では5位入賞と、「本番では弱い小川」とマスコミに叩かれた。
柔道での現役を退いた後、柔道界での約束されていただろう地位を捨て、
なんとアントニオ猪木に弟子入りし、プロ格闘家へ転身、そして新日本プロレスに参戦する。
当時、新日本プロレスのIWGPヘビー級チャンピオンであった橋本真也を数度に渡り倒した際の
「新日本プロレスファンのみなさん、目を覚ましてくださ〜い」発言で、一転ヒールになる。
2001年、大晦日に行われた猪木祭り「猪木軍vsK-1軍前面抗争」では大将として出陣すると誰もが思っていたが、
その期待を裏切りプロレス出場に専念し、一層ヒール役に磨きをかけた。
その後、期待のかかる日本人ヘビー級選手の一人として、
常に名前を挙げられながら総合格闘技のリングに長らく上がらなかった。
PRIDEを主催するDSEがプロレスをソフトに立ち上げたイベント「ハッスル」でエースを務め、
ヒール役から一転ベビーフェイスへと生まれ変わる。
そのハッスルでの査定試合として組まれた「PRIDE GP 2004」参戦で再び、総合格闘技の世界に戻り、
多くのファンに幻想を抱かせてくれ、実力を見せてくれた。
プロレス人気を復活させるために芸能活動にも積極的に参加する。 |