五輪出場資格獲得
川合達夫インタビュー


(1)中学校のとき、生徒会長やってたんですよ


準備体操も手を抜かない川合「明和村出身なんです。今は町なんですけど、内容は変わってないんですけど。館林の隣なんです。群馬県は鶴の形してるんですけど、あれの嘴のところです。ちょうど一番、東京寄りのところです。」

−−上毛カルタに出てくる『鶴舞う形の群馬県』ですね。

「小学校6年のときに、明和村の上毛カルタ大会で村で2番になったんです。しかもそれホントは優勝できたんですけど、途中で『鶴舞う形の群馬県』の『つ』の札とられたんですよ。結構いい勝負で、同点の場合は『「つ」負け』て言って、『つ』持っている方が勝っちゃうんですよ。で、諦めてお手つきしちゃって、お手つきしたら相手に一枚やらないといけないじゃないですか。あれがもし自分のほうへ来てたら優勝したかもしれません。
 あのとき、自分が住んでいる明和村の南大島は四人しか選手がいなくて、四人でリーグ戦やって、自分が一番弱かったんですよ。個人戦と団体戦があるんですけど、みんな団体戦の方に出たいんですよ。だから上位三人の子は、団体戦の方に出てその三人で仲良くなっちゃって。でも、そいつらは予選で負けたんですよ。その間に、悔しいから『関東と信越つなぐ高崎市』『太田金山子育て呑龍(どんりゅう)』とか一本のテープに全部吹き込んで、ずーっと何回も何回も繰り返し、読んだらまた聞いて、読んで、自分で練習して、そしたら早くなって、予選突破してベスト4まで行って。そのあと決勝まで行ったんですけど、これ、優勝できなかったのがちょっと今でも思い出になってます。
 努力してやってたんですよ。最後の方はホントに『浅間のいたずら鬼の押し出し』あれば、(カルタをとる手まねをしながら)『あさ』パーンて、今度は『伊香保温泉日本の名湯』で『伊香保』パーンて、『あさ』パーン、『いか』パーンでとるぐらいの速さになって。今でもやれば、結構早くなりますけど。」

−−クラブとか運動は何をやってたんですか?

「小学校のときは5,6年生から陸上やってて。週一回ぐらいのクラブで、陸上で短距離だったんですけど、タイムは14秒9で遅いんですけど100メートルで市の大会で二着になってですね、走り幅跳びは4m21くらい跳んで優勝したんです。バレーボールもやってたんです。バレーボール、結構明和中、強かったんですよ。先生から『来ないか』て言われたんですけど、自分は格技の方やりたかったんですね。格技をやりたくて柔道いっちゃったんですけどね。

 中学校に入って柔道やったんですよ。郡で3番くらいだったんですよ。あんま柔道は大したこと無かったんですけど。その当時、下に柔道着を着てですね、裸足で表とか走り行きますよね。近くの西小学校からタイヤをでっかいの二つくらい盗んで来るんですよ。で、利根川の河川敷のところで紐つけてこうやって(立ち上がって実演)引っ張るんです。こうやって引っ張って今度こっちの腕でこう引っ張って(左右の肩越しに引っ張る様子を実演)やってたんです。校舎の非常階段をウサギ跳びしたりとかですね。『1,2の三四郎』ていうマンガで柔道着とか、血が滲むじゃないですか。あれやりたくて、血滲ませて、わざとやってました。『1,2の三四郎』好きでした。よかったです。木とかに柔道着の帯を結びつけてこうやって(引っ張る仕草)。掃除とかも好きで、武道館の便所掃除から床掃除からよーく掃除やってました。

 中学校のとき、生徒会長やってたんですよ。それで、いくつかある邑楽(おうら)郡の中の生徒会役員が集まるのがあるんですよ。その会合は第一班、二班、三班、四班て分かれていて、第一班は生徒会長と副会長が集まるんです。たまたまそのとき明和村の順番だったんですけど、第一班の議長をやってます。いや、大したこと無いですけど。赤城青少年の家みたいなところに一泊して、生徒会の中のいろいろ問題とか学校行事とか、制服のこととか話し合ってました。
 2年生の10月ぐらいから3年生の10月まで生徒会長だったんですけど、卒業生代表の答辞を読まなかったんですよ。卒業生を送る言葉のほうはやったんですけど、答辞はやらなかったですね。生徒会長やったのに答辞を読まなかったの、自分が最初ぐらいじゃないですか。あんまり信用されてなかったんです。
 中学校のとき自分虐められててですね、いじめ、ていうか無視されて。結構嫌われてましたよ。あんまり喋られなかった。生徒会長やっててもいじめにあってましたね。なんで今でもちょっと、人を見ると引いちゃうような感じありますけどね。いじめとかのちのちまで来ちゃいますからこういうことやっちゃいけませんよね。今でも人を見るのに信じきれるかしきれないか、信じていいのかな?て疑心暗鬼になっちゃいますからね。

 3年生ぐらいのときになって学年で成績が20番ぐらいになったんですよ。それですごい勉強して学年10番ぐらいまでいったんですよ。だから親に『誉めて』て言ったんですけど、誉めてくれなかったんです。それ寂しくて、ひねくれちゃって、ていっても不良じゃないですけど、やる気なくなっちゃって。そのとき中学校で10番ぐらいまでにつく、ていうことは、太田(太田高校)とか頭のいい高校行くヤツも混ざってるわけです。県で何番とか、郡で何番とかいうやつも中にはいますから。だからすごい、結構かなり成績よかったんですよ。でも誉めてくれないから成績落ちちゃったんです。どんどん落ちちゃって、100番すぎて、最後、下から数えて10番くらいまで落ちちゃったんです。

 言っちゃ悪いですけど、板倉高校ていうのがそんなに頭が良くない学校だったんです。だから『板倉くらいしか行けないな』て思ってたんですけど、明和中の柔道部にいた清水先輩から『レスリングやるんだったら西邑楽高校に来ないか』て言われたんですよ。それで西邑楽ていうのはランクが板倉の一つ上なんですよ。『じゃあ、そっち行った方がいいかな』と思って、それでレスリング始めたんですよ。だから『レスリングをやりたいな』じゃなかったですね。でも、清水先輩のさらに一つ上に関東学園に行ってた坂上先輩ていう人がいて、坂上先輩の方からも『来ないか』て話が来たんですよ。ホントは坂上先輩に言われて、『レスリングやろうかな』ていう気になったんです。結構あこがれの先輩だったんで。で、先に西邑楽に行く、て言っちゃってたんで西邑楽高校にポンと入ったんです。それまでレスリングやったことは全然ありませんでした。見たこともなかったです。どうやったらポイントになるかも全然わかんなかったです。

ピースサインとはこのくらい愛想がよくないといけないと見本を見せる川合  高校に入ったときは、体重74kgなかったくらいですね。72、3kgくらいですね。身長は今とそんなに変わらない、172か3くらいかな。今でも8か9くらいで、そんな変わらないですけどね。体重だけはだいぶ増えました。高校入ったときに74kgで減量ありませんでした。減量しはじめたのは85に階級変わっちゃってからなんで。
 ホントは自分、減量したくないんすけど。大学で82kgでやったときも1kgぐらい、1kgから1.5くらいの減量で、90kg級でやってるときも、86、7kgくらいしかなくて、それで世界選手権とか行ってました。コレじゃまずい、てんで増やしていたんですけど、やっと増えてきたな、と思ったときに今度はアトランタ終わって、スパーンと階級が97と85になっちゃったんで。もうめっちゃくちゃに食って、プロテインとかとったりして、一回に人の倍くらい食ってですね、それでやっと90行くか行かないかくらいだったので、こりゃ97は無理だな、と思って85に落としたんですよ。
 97だと外人だと、骨格とかも違ってきますからね。手とか足のでかさとか顔のでかさとか、全部変わってきますからね。ある程度骨の太さがないと肉、つかないな。こりゃ無理だな、と思いましたね。でも85になると正直、結構キツイですね。減量で体重が86過ぎると、体がたまに震えてくるときありますね。
 落とすのは4kgくらいですから、前の前の日の昼まではきちっととるんですよ。計量の前々日の3時くらいまではメチャクチャ食っとくんですよ。午後練習終わるまでは、普段と同じに食べとくんですよ。それから減量するんですよ。そうすれば、午後練習の後は夜ですから、帰って、風呂入って、ちょこっとなんか飲んで寝るぐらいで楽ですよね。それで落ちちゃいますね。汗っかきなんで。だから塩分とかとって出さないようにしてるんですよ。出過ぎると逆に失敗しちゃうんです。ふらふらになっちゃうんですよ。計量終わったあとも、塩分とかとりながら、スープに塩こしょう入れたりとか直接塩舐めたりとかして。そうすると体の中の血中濃度も塩分濃度も高くなってぎゅわーっと水分入ってきますよね。うまくやらないと食事を摂っても、計量が終わって次の日にへろへろな感じで力が出なくなっちゃうんですよ。5kgぐらい体重取って、試合終わると2kgか3kgオーバーくらいですね。減量をするようになってまだ2年くらいしか経ってないですね。最初の頃はかなり失敗してたんです。」


(2)外人って動物的ですよね→→

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