三宅靖志インタビュー
全国社会人選手権
1999年7月17日(土)18(日)。両日とも駒沢体育館で午前9時半試合開始
クラブチーム戦にRJWで出場。
東京、駒沢体育館で5月18日から21日の4日間にわたり、東日本春季学生リーグ戦が開かれた。レスリングの東日本学生学生リーグは一部と二部の二つに分かれ、それぞれAとBのグループの合計四つに分割されて争われる。リーグ戦は団体戦で、8階級から一人づつ出場して勝敗を争う。勝敗数が同じ場合は、試合内容によって決められている勝ち点の合計の差で団体としての勝敗が決まる。
青山学院大学レスリング部は、一昨年の入れ替え戦で破れて以来、一部リーグBグループに甘んじている。一部と呼ばれてはいるものの、その実質は監督の三宅靖志が言うように「聞かれたら『二部です』と答えますよ」というものだ。
インタビューをした21日の最終日、青山学院大学は5勝1敗で迎えていた。上位グループへの入れ替え戦は、そのグループ内の上位二校と上位グループの下位二校によって争われる。21日の最終戦が始まる前の時点で、一部Bグループの上位二校は最終戦を無敗で迎えていた東農大。そのあとに続くのは青学と、同じく東農大に破れた専修大学だった。東農大は入れ替え戦への進出が確定。上位グループとの入れ替え戦の権利はあと一校。最終戦の対専修大学を残すのみだった青学は、勝ち点の差からみて戦前の予想では誰もが専修大学よりも圧倒的に有利だろうと見られていた。
記者席の前のB6マットで始まった一部Bグループの青山学院大学と専修大学の試合は、戦前の予想を覆す展開になっていった。69kg級までは勝敗で2−2としたものの、それ以降は試合内容で圧倒的に優位に立ち続けながらも得点に結びつかず敗れる試合が続き、最終的には3−5で破れるという結果に終わった。
母校である東海大の入れ替え戦を見届けた後、一部リーグの入れ替え戦を見ながら、選手であり、監督である自分自身について話をしてもらった。
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――今日は残念でしたね。
「残念ですねえ、本当にもう。」
――入れ換え戦で勝ってたらもうちょっと。
「ココでやってたかと思うと。」
――専修大学にあんなに負けが込むと思ってました?
「いやあ、6−2くらいの星勘定で勝つんじゃないかと思ってました。あんなになると思わなかったです。」
――監督さんとしてはがっかりですね。
「1−6になって負けたんならあれだけど。勝てる相手だから。」
――学生さん何人か怪我してたんですよね。
「二人ほど、正規のメンバーが。それでもねえ。」
――今日はお疲れさまでした。次、新人戦 ですね。監督としては?
「あー、どうですかね。」
――霞ヶ浦高校出身の1年生が入った、て。
「まだ優勝は無理でしょう。」
――2年生もいるしいきなりは難しいですかね。では、気を取り直して。
近いところで、全日本選抜の話から聞かせてください。前回のオリンピック(1996年アトランタ五輪)以後は76キロ級でずっと出場していたのに、69に階級を下げて出られたじゃないですか。やっぱり、ホントは、オリンピックて頭にありました?
「まだちょっとそこまで、前のオリンピックみたいに『絶対コレでオリンピックに行くんだ』てそういう気持ちがやっぱりなかったですね。まあ、その辺が差になって出ましたね。」
――菅平へ取材に行ったとき永田選手[写真右]と話をしたんですけど、三宅さんが階級を下げて出てきたことについて『急に下げて出てきた、ていうことは僕なら勝てる、て思ったていうことですよね。悔しくて、すごい練習しました。』て言ってましたよ。
「いや、そういうことじゃない。76kg級よりは勝てる可能性がそりゃあ高いでしょう。本来だって僕は69だから。」
――そうですね、減量して出れば69ですもんね。一回、『69に出るのはもうやめる』と言っていたと聞いたんですが。
「まあ、だから、下げてやってもねえ。オリンピックとか、世界選手権とかに出ないんだったら、やってもしょうがないでしょ。」
――会社員としての生活もあるし。
「だから、そういうのね、専任してやってるんだったら、ずっとコレやってますよ。そうじゃないんだったら、ただレスリングを楽しむんだったら、楽しむっちゃあ変だけど、国内だけでやるんだったら、そこまで、69に下げて勝てても。」
――三宅さんがレスリングを始めたのは、高校からなんですか?大学からなんですか?
「大学からです。」
――柔道と平行してやっていた時期とかあるんですか?
「高校3年の夏以降ぐらいは平行して。平行して、ていっても、柔道の練習が主ですけども。レスリングは週1,2回。大学行ってやったり。」
――それは、レスリングをやりたくて始めてたんですか?それとも柔道の参考になるから?
「いいえ、違います。そのときはもう、レスリングを大学でやる、て決めてたんで。」
――グレコローマンスタイルにしたのは、何故?
「やっぱり、グレコの方が柔道の技術が生かせるし。フリーだとやっぱりタックルが中心になるから。グレコだったら構えも高いですし。」
――そんなに大きく考え方を変えないでも、動き方を変えないでも、なんとかなりやすかったんですか?
「それでもやっぱり最初は苦労しました。」
――どの点が一番違ってました?ジャケット着てる、着てないとかありますけど。ほかは?
「寝技の守り方が全然違うでしょ。柔道は手を伸ばしたり、首あけたりは絶対にしないでしょ。そんなことしたらすぐやられちゃうから。あと、背中はやっぱり、つけられないでしょ。」
――レスリングは東海大 でやってたんですよね。東海大、大変みたいですけど。一応残ったんですよね。
「上の方は柔道部が結構やってくれて。」
――最重量級は柔道部にお願いしている学校結構ありますね。
「でかいヤツ、ていうのは、やっぱり、ほかのスポーツ行っちゃう。レスリングはなかなか。」
――東海大を出て、レスリングをさらに続けるのに普通の会社に入ってますよね。ほかの選手の進路をみると、警視庁だとか、自衛隊体育学校だとか、レスリングばかりやっていられる道を選んでいる人が多いじゃないですか。そういうのは考えなかったですか?
「うーん、ちょっとは。でも、あんまりそういうのもどうかな、と思ったんですよ。弱小大学でやってて、自衛隊とかそういう強いところでやるのは、あんまり自分の感覚的にあってないから。そういう何となく、自分一人でやったり、弱いところでやったり、強いところのヤツをやっつけたりするのが面白みがあるし。大学でも日体大に入ってやってもきっと面白くなかった。だから大学でもし日体とか、行けたとしても行かなかったんじゃないかな。」
――レスリングの選手で、『レスリングだけの生活にしたくない』てやっぱり言ってる人がいるんですよ。そういうところもあったんですか?
「うん、多少、あったかもしれない。レスリングだけ…うーん。」
――知らない人に知らしめたい、というのは昔から強いんですか?
「あるかもしれないですね。東海大学なんて弱いだろうと思ってるヤツに『どうだ』て言わしたい、ていうのありますね。」
――青山学院のコーチから監督を引き受けられた経緯というのは?
「知人が青学のOBと知り合いで。そっちの方から話が来て。まあ、場所も近いし。東海大学も行ってたんですけど、遠いから週一回くらい行くのが精一杯で、どうしても指導する、となると十分なことできないし、時間もあんまりとれないし大変でした。」
――いまは、週何日くらい監督さんとして練習を見ているんですか?
「週4日くらいですね。朝週2回マットでやってるんですよ。週1回合宿所に泊まって、翌日の朝練習のランニング。朝は3回とあと土曜日。学校休みになったら夜、練習できるんで、そのときはだいたい、毎日。」
――まだ、現役意識が強いと思うんですけど。
「だからその辺が、自分自身もなんか中途半端で迷っているから。その中途半端な気持ちがこの間の試合も出たんでしょうね。」
――難しいですよね。一旦教え子を抱えたら途中で離すこともできないし、でも、自分は選手としてやりたい気持ちがあるんですものね。
「だからもう、今年まで、あそこまでやったしもういいかな、という気持ちもあるんですけどね。でも、まだもうちょっと体も動くし、もうちょっと…うーん、やりたいな、という気持ちもどっかにあるし。」
――7月の社会人選手権 には出るんですか?
「7月のはよくわかんないんですけどRJWとして団体戦で出るかもしれないですね。フリースタイルになりますが。」
――オリンピックはまだ諦めてないですか?こんなこと言うと永田選手に悪いんですけど、9月の世界選手権でグレコ69キロ代表の永田選手が8位以内に入ってこなければ、シドニー五輪に向けてもう一回代表選考は仕切り直しですよね。 その場合もう一回考えますか?
「だからもう、決めるんだったら、今ぐらいでもう決めておかないと。決めて、もう死ぬ気でやらないと無理でしょう。彼はもう、それに命かけてやってるんだろうし。」
――決めてないんですか?
「うーん、まあ、どっちにしても出ることにはなるかもしれないけど、その、気の持ちようは『やるぞ』という気持ちに…」
――今一つ覚悟はできてないかもしれない?
「(にっこり笑うのみ)」