2)相撲で空中殺法炸裂!?

−−入江選手自体も、これまで格闘家として決して幸運な流れを歩んできたわけじゃないですよね。

「そうですね。うちに来てる人間もそういうのが多くて、シューティングを離れた奴とか、布施もリングスを離れてますし、稲野も和知もプロになれる実力はあったけど、運がなかった人間が流れてきてるんですね。だから僕はシューティング以外でも軽量級の選手が格闘界で活躍できる場が増えてもいいと思うんですよ。もちろん僕はシューティングを否定しているわけじゃないですよ。それ以外に、うちのようにブレイクも多くて、U系の中で唯一エスケープが残っている団体があってもいいんじゃないかって」

−−頑固にそのルールを守ったことで唯一の団体となった面もありますよね。ところで入江選手のことを知らない読者も多いと思うんで、格闘技歴をお伺いしていきたいんですが、まず最初は相撲に入門されたんですよね?

「はい(照れ笑いを浮かべる)」

−−なぜ相撲に入ったんですか?

「実は僕、高校時代からあんまり..、優等生ではなかったと。アウトローの生活で、学校退学してしまったと。それで家出して、そのあとは長崎の街でバイトしながら夜学に通って暮らしてたんですけど、やっぱり感じたのは毎日が一緒だったんですよ、家出する前と。仕事して勉強して夜中遊んで。それで2年ぐらい続いたんですか。あと1年で卒業という時に、ふと『何かまだ自分はできるんじゃないか』と。当時それがまだ何かわからなかったんですよ。それで身長があったんで、たまたま知人に佐渡ケ岳親方がいて相撲に誘われたんです。でも体重が73キロぐらいしかなかったし、できるわけないよなぁと思って何回も断ってたんですけど、親方がいつも電話をかけてきて、『とりあえず1回東京に来い』と言われて」

−−長崎で会ったんですか?

「両親が昔からの知りあいで。その関係で東京に来いと。でも僕には相撲にはダサいイメージしかなかったんですよ。18ぐらいって言ったら女の子にモテたいじゃないですか(笑)。だけど東京に行けるのも魅力で。まぁ半分ヤケクソも入ってましたね。で、東京に来て、その日に親方が寿司とかを死ぬほど食わしてくれたんですよ。『お前有名になったらこういういい思いがたくさんできるんだぞ』って言われて、『なります』と」

−−(笑)

「あのまま寿司だけ食わせてもらって東京から帰ってたら良かったんですけどね(笑)。で、次の日マワシを朝5時ぐらいから付けられて。自分もまあまあ大きいと思ってたんですけど、他の関取と並ぶとマッチ棒みたいで。僕は18歳で入門だけど他のみんなは中卒で15歳で入ってるんですよ。15の奴にも勝てないんですね。元々負けん気が強かったから、とりあえず体重増やそうと毎日ちゃんことご飯を8杯食って、寝る前に甘いロールケーキを2本食って、ゆで小豆の缶も食って。よく糖尿で死ななかったなぁと思いますけどね(笑)。まあ汗を出しますから。それで2カ月で30キロ増えました」

−−おお!

「100キロ以上になりましたね。元々足腰もまあまあ強かったみたいで、うまい具合に勝ち越しの連続で。でも5場所ぐらいやった時に首を痛めちゃったんですよ。なぜかというと、僕見た目よりも臆病なんで、立ち合いでは額の生え際で当たれと教えられるんですけど、頭を下げて当たってたんですよ。140キロの奴にガンガン当たってたら、首の骨がずれたんです。それで握力が20キロぐらいになって、練習もできないし、結局それが原因でやめちゃったんですけど。

 それとあと、入門の時の跳び蹴りとかで。跳び蹴り食らわしたんですよ」

−−跳び蹴り?

「相撲中に、僕気が強かったから、張り手の応酬で相手に殴られたと勘違いして、相手を土俵下にたたき付けてやったんです。そんで、こっちが勝ち名乗りを受けようと戻ろうとしたらいきなり向こうが『ちきしょうこの野郎』とか言ったんで、『なにぃ!』とか言っていきなり土俵上から相手に思いきり跳び蹴りを食らわしたんですよ」

−−(笑)

「それが東京スポーツとかに大きく載りましたね。そういうのとかあって結構注目されてましたけど、そのあと休場とかあって振るわなかったので。怪我とかもあってまあ廃業という形で。辞める時は挫折感もありましたね。でもそこそこいいところまで行ってたんで、大学から誘いが来たんですよ。大相撲だと背が高いのが多いから頭から当たらないといけないんですけど、アマチュアだったら僕だと高いほうなので、立ち合いでも胸で当てれるんで、多少怪我があっても通用するだろうってことで。プロで1年やったのはアマで3年ぐらいのキャリアですから、1年生で即レギュラーで」

−−大学は?

「はじめ日本大学に1年間行ってたんですけど、その時に舞の海さんや、ちょっと亡くなられたんですけど大翔鳳さんとか、肥後の海さんとかがいて、その中で揉まれながら1年間ぐらい暮らしてて、日大の2年になる時に監督に呼ばれて、『お前の性格から見て、うちの大学だったらおまえの性格からしたらレギュラーでバンバンやれないと無理じゃないか?うちよりレベルが低いけど、国士舘が選手を欲しがってる。たぶんお前が今行ったらすぐレギュラーでエース格でやれるだろう』当時日大の1年というのはレベルが物凄く高くて、日本大学というのは全国で8連覇ぐらいしてるところだったんでそう言われちゃったんですよね。

 最初は拒んでたんですけど、一つ言われてたのが、国士舘で体育学部に入れば体育の先生になれると。なぜ先生になりたかったかというのは、長崎で最初の高校をクビになった時に、先生とケンカしてやめたときに『お前はこれで一生中卒だ』とかどうのこうのって罵倒されたのが悔しかったというのがあって、じゃあ高校の教員になって見返してやろうと。それで国士舘入って、教育実習前に母校に電話したんですよ。クビにした先生に『僕、国士舘で教員免許取ったんで、実習行かせてください』って言ったらビックリしてて(笑)」

−−仕返しができたと。

「でも、断られましたけどね。しょうがないですけど。まあ、そういう挫折感ってのがあったから、今の状況で、プロレスに対して、キングダムに対して、底辺からもう一度登り詰めようというのは、あの時の気持ちが残ってるからですね。」

−−なるほどね。で、国士舘にレンタル移籍の話に戻りますが。

「国士舘で1年から4年間レギュラーで。でも僕自身相撲があんまり好きじゃなくて、区切りを付けたかったんですよ。まあ大学入って4年間ちゃんとやり通して辞めようと思いまして。その間にいい成績を残してたんですが、最後の大会で僕全然勝てなかったんですよ。大学もあんまりいいところに行けなくて。その時監督に『どうして僕を換えないんですか?』って聞いたら『お前はうちの顔だから、顔を落とすということは国士舘の看板を否定することになるから』って言ってくれて、涙が出てきたんですよ。やっぱり人間って、守ってくれてる人とか応援してくれてる人のために強くなくてはいけないんじゃないかというのがあって、どうしても強くなりたいと。

で、何でそれが総合格闘技に結びついたかはわからないんですけど、とりあえず大学卒業した時が24だったんですけど、『まだ体が動く』と。でも何をやったらいいかわからない。まだ昔と同じ状況になって、その中でシューティングの試合を見て。やっぱり入るきっかけとしてみんな凄く大きいと思うんですけど、95年のバーリ・トゥード・ジャパンで中井さんとヒクソンの試合とか、その前の草柳さんと川口さんの試合とか見てて、日本人が勝てないんですよ。やっぱりヘビー級が少ないと。当時エンセンもいなかった頃なんで。客もあんまり入ってない、ガラガラの頃だったんですよ。で、僕が入って、強くなって修斗をメジャーにしようかなと(笑)、その時にはふと思ったんですよ」

−−その頃からそういう発想があったわけですね。

「総合格闘技がブームになるかどうかなんて当時はわからなかったんですけど、ただ一つ最強の概念があると。その競技だけじゃなくて好きなものを取り込めて。あと、練習とかも入ってみて水が合ってると思ったのは、僕結構いろんなことに挑戦したいんですよ。今日はキック、明日はレスリング、柔術やろうって。自分の動かす体の全てが総合につながるんですよ。自由なんです。それが今長続きしている発想だと思うんですけど」

−−相撲はあれやっちゃいけない、これやっちゃいけないって多いですからね。

「跳び蹴りやっちゃいけないですしね(笑)。当時理事長室に親方が呼び出されて、親方凄い怒られると思ってたら、二子山親方に『お前、あいつ元気があっていいなぁ』って誉められたって言うんですよ(笑)。現役当時の若乃花さんって少し破天荒なところがあったじゃないですか。そういうことで気に入られて。だから基本的に..まああの時は反省しましたよ(笑)」


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