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 '99 フリー世界選手権大特集
和田貴広 「バラバラのリング」
 の気がひいた顔、というのはこんな顔のことを言うのだ。まっしろな顔。ファインダー越しのこちらにまで緊張が伝わる。しかし、前のめりになるような心地よい緊張ではなく、後頭部から後ろへすーっと引き戻される類の居心地の悪さ。勝利だけに集中できていないせいなのか。

 


 
 選リーグ一回戦の相手はEmzari Bedeneischwili(グルジア)、昨年の世界選手権6位の選手。1ピリオド目、Bedeneishwiliにパッシブがつきパーテルを取る。ここで1ポイントでも取れれば。腕を取ろうと和田の長い腕が相手の腕に執拗に絡み付く。だが、とりきることができない。和田の代名詞ともなっているワダスペシャル(相手の腕を極めた状態でのローリング)は、今ではポピュラーなものとなっており安易にはかからなくなっている。それでも今までの彼は巧みに動いて取っていった。同じ技でも、そのバリエーションと速さ、正確さで他を凌ぎ、パワーで押してくるタイプにも対処してきた。しかし、相手の肩をまったく動かせないままアップが命じられる。これが69kg級なのか。スタンドから再開。片足タックルに出る。脚を完全には取らせてもらえない。第1ピリオド終了まであと20秒ほど。今度は和田がパッシブをとられ、下になる。

  もし、ここでポイントが入るようなら私はカメラのシャッターを押さねばならない。しかし、自分がここでシャッターを切るということは、先制点を取られることを意味する。アンカラに着いた翌日に買った銀製のパズルリングが、今朝ほどけてバラバラになってしまった。もとは一つにまとまっていた四連のリングを元に戻す時間がないままホテルの部屋に置いてきた。そんな関係のないことが頭に浮かぶ。69kg級のパワーの前に何度か体を浮かされながらも凌いでアップとなり、そのまま第1ピリオド終了。

 第2ピリオド。ようやくポイントが動く。片足タックルからバックにまわり和田が1ポイント先取。グランドで上になり、ここから点数を重ねるチャンス。しかし、まったく動かせないまま時間が経過する。アップを命じられスタンドから再開。再びタックルにはいるが、潰されて逆に1ポイントを取られる。1−1。

 


 
 イントでは並んでいる。パッシブの数だって同じだ。なのにシャッターを押す瞬間が来ることを怖れているのはなぜだ?「持ち味」であると自負する「動き」がまったく見られないままでいるから、シャッターチャンスが勝利の瞬間だと信じられないからだ。4月の全日本選抜のときには一度もこんな気持ちでファインダーをのぞきはしなかった。対戦相手のレベルの違いだけが原因ではない。先にポイントを取られてリードされている瞬間でも、勝利を確信している被写体に揺るぎはなかった。彼は常に攻撃し続け、自信にあふれていた。

 そういえば、ここ最近、和田の口から聞かなくなった言葉があった。

『世界選手権で8位以内に入ってオリンピックに出ます。』
 春先に何度も聞いた言葉を耳にしなくなっていた。69kg級に階級をアップしたものの思うように筋力を強化できない、強豪揃いのヨーロッパの選手とまったく試合をしないままである、練習相手が不足、自分のペースがつかみにくい環境……不安材料は数え上げればきりがない。さらに、アンカラ入りしてから体調を崩し食事がとれなくなる。前日の計量後は点滴を打ち、この日の朝も食事が取れずにゼリーを口にするのがやっとだった。

  2ピリオド残り1分ほど。片足タックルから軽々と持ち上げられ、スパンと投げ落とされる。体を翻して1ポイントにとどめる暇も与えられず3ポイントを奪われる。3ポイント差。しかし、時間はまだ1分ある。レスリングは何が起こるか分からない。和田自身も言っている。

『わかんないじゃないですか、試合で何が起こるか。こう、両肩ついたらそこで終わりなんで。』
 いつもの、独特の潔さを身にまとっている和田の姿なら、まだ行ける、とこちらも信じることが出来たかもしれない。なのにこの試合の彼の動きは、攻撃するのをためらっているように受け取れるほど緩慢だ。どうにも落ち着かない。ホテルの部屋においてきたパズルリングを、ほどけたままでも身につけてくればよかったと思い始める。

 終了間際、返し技で2ポイントを取るもあと1ポイント相手に及ばなかった。勝利者として対戦相手の腕が上げられている間も、彼の顔はまだまっしろなままだった。


 じ日の夕方4時から午後の部の試合が始まる。和田の予選リーグ二回戦、三回戦が予定されている。一敗しているとはいえ、ポイント0で負けてはいないので勝ち点を1点は獲得できている。二回戦、三回戦で勝利し、総勝ち点で上位になれば決勝トーナメントへ進出できる。

 しかし、ことごとく技を力でぶつされてしまう。まずYueksel Sanli(トルコ)戦。今までの63kg級ではなく69kg級という力の差で勝手が違ったのか、慌ててしまったのか。一試合目にくらべて攻撃する動きは戻ってきたものの、いつもの、人を食ったような攪乱させるすばやい動きが出てこない。和田のレスリングは、こんなに真っ正直で単調なレスリングだったろうか?片足タックルに入られ、バックを取られて1ポイントを失う。


  2ピリオド冒頭、片足タックルから後ろに回り1ポイントを獲得。ここから先がポイントに結びつかない。せっかくパーテルになっても相手の体を浮かせることすら出来ない。1−1とポイントが並んだまま試合時間は5分を過ぎる。先に仕掛けたのは和田の方だった。片足タックルから相手を崩すことをねらったが逆に後ろに回られてしまう。1ポイントを失い、1−2で6分終了。3ポイントのノルマを達成していないため、延長戦へ。

 たった1ポイント差だ。タックルに一度入ってローリングを一回でも決めることが出来れば逆転して勝利を得られる。しかし、試合がすすむにつれて得点源が極端に減ってしまっている事実を突き付けられている。それでも第一試合に比べて格段に攻撃する態度になっている様子を見て大丈夫、まだ勝てると思い込もうとする。

 延長戦で先に勝負に出たのは和田だった。タックルに入るが返されて逆に後ろを取られ1ポイントを失う。6分53秒、相手は3ポイントのノルマを達成した。うち、2ポイントが和田の攻撃を返した形での獲得点だった。

 会場はとても静かだった。勝利したトルコの選手への歓声や拍手が客席から沸いていたが、なにも感じられなかった。厳しい現実に直面させられると、人間の器官というものは周りの動きに対してまったく反応しないようになってしまうのだろうか。感情の針もまったく振れなかった。敗戦の瞬間というのは、悲しみや悔しさより空白が覆うもののようだ。左手の人差し指が軽くて落ち着かない。銀のパズルリングをしていないことをまた思い出した。

 


 
 試合目に負けたことで決勝トーナメントへの進出はなくなり、オリンピックへの道はまた振り出しに戻った。

 それでもまだもう一試合が残されている。相手はSergej Demtchenko(ベラルーシ)。予選は3人ないしは4人のリーグ戦で総当たりと決められているから、たとえ決勝への望みが絶たれている状態でも試合をせねばならない。69kg級の力を試す場として、悔いの無い試合をして次へつなげてもらうことだけでもしてもらいたい。

 しかし、三試合目のマットの上には、二試合目よりも攻撃をしなくなった姿があった。6分フルに戦って0−3。結局、今年の世界選手権で和田の腕は一度も上げられずに終わった。

 選リーグの同じブロックに最終順位で3位(予選1回戦の相手Emzari Bedeneischwili)と4位(予選2回戦の相手Yueksel Sanli)の選手がいたのをくじ運が悪いと受け取り、彼の実力を評価するべきかもしれない。だが、彼は納得がいくレスリングが出来たのだろうか?

 たとえ結果としてポイントを取られることになっても、いつも自分から技を掛けに行ったこと、攻撃したことを和田は強調する。リスク・レスリングを実践しているという自負がある。その本領がまったく発揮されずに終わったことに見ているこちらも不満だし、彼自身も不満に思っているはずだ。

 約束していた時刻よりも大幅に遅れたことをわびながら、いつもの明快な口調で和田は自分の試合を振り返った。

『いや、もう歯が立たなかったの一言ですね。
 考えが甘かったですけど。まあ、現実は予想以上に厳しかったですね。簡単には行かないと思ってたけど。どっかこう、通用する部分があるかなあ、と思ってたけど、厳しいですね……
 69であんまり経験が足りなかったから。こんな、気づくのもうちょっと早いほうがよかったんだと思いますけど。何が悪い、てすぐ分かるから。今頃気づいても遅いですけどねえ。
 アジア選手権のときはやったのが中国と韓国しかなかったから。韓国はまあ、レスリングが日本とホント似てるし。組みやすい、てところありましたけど。それで自分のツボにはまったから勝てたと思いますけど。やっぱりヨーロッパ、旧ソ連、強いですね。
 試合にはあんまりちょっと集中できなかったですね。具合悪かったから、それであんまり集中できなかったですね。食事もあんまり摂ってなかったし。自分が悪いんですけど。まあでも、調子よくても厳しいは厳しいですね。

  納得いってるもの無いですね、もうどれもね。もうどれもこれも…歯が立たなかった、てだけですね。まあやっぱ、一番、力ですね。それだけはもう、63ではあんまり力とか感じたこと無かったんですけど、69だともう、全然違いますね。予想以上ですね。
 筋力トレーニングが足りてるとは思わなかったし、レスリングでもしっくりこないところあったけど……それはそれで減量もないし、なんとかいけるかな、と思ったけど。厳しいですね。今回トップ8もかかってたし、周りもえらい、意気込んでて、気迫でも押されてたし……
 パーテルはもう、ちょっと無理ですね。返せないですね。日本の試合で返せるような感じには行かないですね。相手がびったりマットについて、それを動かす力もないですからね。パーテルたくさんとると有利ですけど、力がないから、筋力がどうしてもないからですねえ。
 時間がないですからねえ。筋力アップ、やらなきゃいけないですけど。うーん……筋力……持ってきたいと思いますけど……もう、並みの筋力がないから。69に最低限必要な筋力、ていうのもちょっと、劣っているような気がするし。
 あとやっぱり、相手とこう、コンタクトして揉み合った状態の中でポイントつなげるとか、防御するとか、そういう練習が足りないですね。それが大きいですね。感じたのはそれですね。スタミナとかそんなのは別になんとかなると思いますけど。

 いや、いまんとこはもう、うーん、もう、がっくり、という感じもないですけど、ちょっと現状厳しいですね。まだ、どうこうしよう、て考えてないですけどね。
 11月の全日本選手権で、まあやるしかないと思いますけど。』

 話し終わってから、和田は部屋の中の洗面所に入った。戻ってきてベッドに腰掛けると、サイドテーブルにおいてある薬を手に取った。粉薬の入った袋を開けながら「(お昼に)食べたもの戻しちゃって。」と呟く。そう呟いた和田の顔は、まだ青白いものの、いくぶんやわらかな赤味が差しているようだった。

(10月9日、トルコ・アンカラ)


 

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レポート:横森綾