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'99 フリー世界選手権大特集
130kg級・小幡弘之 「最後の願い」

組み合う小幡 幡が初めてオリンピックに関わったのはのは1988年のソウル五輪だった。当時、日本大学2年生。それから11年。バルセロナ五輪のころは本田多聞(現全日本プロレス)に代表権の獲得を阻まれたが、それ以外は一貫して最重量級では日本のトップであり続けた。
 合宿の取材に行くたび、小幡は足を引き摺っていた。持病になっている膝の故障、15年に及ぶレスリング生活、そして130kg級で闘うためのみずからの体重。どちらも失うことが出来ない大事なものだが、そのために小幡の体は現役選手としてはギリギリの状態になっていた。直前の合宿でも、どこか達観したような目つきで「ベテランの味でいきますよ。」と答えるのみだった。
 


 
 10月8日。予選リーグ一回戦は試合無し。二回戦から始まる小幡の相手はMurabi Waliev (ウクライナ)。マットで二人が向かい合う。本当に、同じ階級なんだろうか?それほど見た感じの大きさが違う。試合が始まる。日本では決して味わえない130kg級の本当のパワーに小幡は必死で対抗する。一度だけ、崩されて後ろを取られ、1ポイントを失う。そして、第一ピリオド後半、パッシブを取られたものの肩を動かされることなくこらえきる。第一ピリオド終了時、ポイントは1−0。ひょっとしたら、行けるかもしれない。ギリギリのところで小幡が闘っているのを知りつつも、期待を抱く。

パーテルをこらえる小幡  第二ピリオド。Walievの片足タックルからポイントが動く。これで0−2。パーテルの下を強いられるが、こらえきる。5分近くを経過したとき、Walievにパッシブがつけられる。小幡がパーテルの上を確保。ここで、ちょっとでも肩を返せれば。しかし、日本人を相手にするときのように安易に肩が返ったりしない。何も出来ぬままアップが命じられ、すぐに6分終了のブザーが鳴る。3ポイントのノルマに達していないため、延長戦に突入する。ここでも、先に攻撃してきたのはWalievだった。片足タックルからの1ポイント。6分30秒。小幡は攻撃らしい攻撃が出来ぬまま、試合は終わった。
 


 
 予選リーグ三回戦は翌日に予定されている。8日夜、多くの日本人選手が敗退して全試合終了したため、コメントをとりに宿舎へ出向くと、そのそばに小幡もいた。試合が終わった人からのみコメントをとっているのだ、と説明したところ「オレ、もういいですよ。」と笑いながら言う。明日9日にまだ予選リーグが予定されている。試合はまだあるのに、小幡は少ないながらも決勝トーナメントへすすむ可能性を自分で信じられずにいる。まだ試合があるからまだですよ、と答えると「目標2ポイント!」との声が返ってきた。

小幡、高い位置でのローリング  10月9日、小幡の予選リーグ三回戦の相手はBoyidar Boyadiev (ブルガリア)。試合開始1分ほどで、ローリングをしっかり回され2ポイントを取られる。その後、パッシブがBoyadievにつき、小幡がパーテルを取ったとき、何とか肩を動かして1ポイントを取り返す。しかし、すかさず返されて1ポイントを失う。第一ピリオド終了。テクニカルポイントは3−1。小幡が2ポイントリードされている。
 第2ピリオド。Boyadievが動き続ける。崩され1ポイントを失い、パーテルをとってもポイントを取り返せず、その後、また崩されてポイントを失う。そしてポイント獲得のチャンスをつかめぬまま6分が訪れる。テクニカルポイントは5−1。冗談のように昨夜言っていた「目標2ポイント」に達することは出来なかった。

 97kg級の小菅と同様、いや、それ以上に130kg級の小幡が世界で勝てる実力を日本で養成するのは困難を極める。強い弱いに関わらず、練習相手が皆無なのだ。その劣悪な環境の中、今が最後と決めて、小幡は来年のシドニー五輪出場を目指す。膝をいたわるように足を投げ出して座る小幡は、冷静に自分の今を言葉にする。
 


 
『実力のなさを痛感しましたね。相変わらずの。
 ここへ着いて、自分で、もう思いっきりやるしかないと思っていたから。で、着いて、(130kg級の出場者が)24人て聞いたから。で、ベスト8になれば五輪に出られるでしょ。組(リーグ戦の組のこと)で勝てば(決勝トーナメント勝たなくても)ベスト8になるから。だから、いいくじ引かないかな、ていう考えしかなかったです。くじ運はね、一人ウクライナのヤツがやったことあるヤツだったんだけど……やっぱりよくないでしょうね。旧ロシアとブルガリアっちゅうのは。
 まあ、また(全日本選手権から)やるしかないでしょうね。

予選リーグ三回戦での小幡  最後。最後の勝負。11月(全日本選手権)負けたら終わりだから、とりあえず11月ね。まあ、試合やった感じだと、膝もほぼ大丈夫みたいだから。終われば痛むけれども、大丈夫でしょ。とりあえず11月でしょうね。今の目標は。それしかないでしょ。もう、だから、とりあえず11月。その前に国体の監督として、東京都をぜひとも2以か3位に。1位は無理でも。
 ポイント取りに行けないですよね、日本人の選手。返し技。返し技も力無いとね。
 やっぱりうちらもいつも全日本終わって、国際大会とか出てるでしょ。ああいうの出てるけど、あれだけじゃたぶん、少ないと思うんですよ。だって、もっと外国の人とやっておかないと。全然違いますよ、日本と。全日本とか見ても違うでしょ、こうした世界の動きとか。日本だったら、日本人だったら簡単にこうバック回しちゃうみたいなところを、くるーっと回ったりとか、変なところ足取ってきたりとか、全然違うでしょ。アメリカのレスリングは正攻法でガンガンガーンと来るからあれだけど、旧ロシアとか、ああいうところねえ、全然違うでしょ。日本人にあれやれ、と言っても出来ないですからね。日本人結構諦めてポイント渡すの多いでしょ。全然違うんですわ。
 まえ、もっと若い頃はね、アメリカでも1年くらい行ってこいとか、いろいろあったんだけど、そのころは日本にいたいな、と思ってたから。でもやっぱりね、違いますよ。アメリカに一回、10日間くらい遊びに行ったんですよ。それ、旅行で行ったんだけど、一応レスリングシューズ持ってって、アメリカの100キロ級のヤツの、アメリカの代表の2位のヤツと毎日スパーリングやってたんだけど。はじめのうちはもう全然歯が立たなかったんだけど、だんだんちょっと分かるようになって慣れてくると、対応できるようになって。ああいう、力にはやっぱり、力あるヤツとやってないと対応できないです。日本だと、自分、やってて力負けしないでしょ。こっちだと、もう全然力負けしちゃうから。ロシアに行け、とか、ていわれたらねえ、やだからねえ。そういうことあんまり言わないようにして(笑)ロシアに一ヶ月行ってこい、とか二ヶ月行って来い、ていわれたら困る。ロシアじゃなくてアメリカだったらいいなあ。
 アメリカの130(ステファン・ニール)、ああいうの、ほら力だけでしょ。ああいうの体力負けしちゃいますもん、絶対。技、て感じしないでしょ。手でこうやって足が引っかかったらごーっと前に行く。だからガブり返しあんなに何回も(笑)相手が完全に切っててもこうやって回すからね。あれはすごいわ。びっくりした。
 今回最後だから。もう辞めると言ってあるから、監督に。』

 強くなる難しさを思い知らされ続けた小幡は、自分の限界を目の前に感じつつ、最後のチャンスをつかもうとしている。2000年1月からの五大陸グランプリ。彼の最後の願いは届くのだろうか。

(10月9日、トルコ・アンカラ)


 

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レポート:横森綾