ヤリギン国際大会レポート

「恢復」

 計量が終わったあと、右手の中指と薬指に細く短いテープをはり渡し固定する。右手指の腱を痛めてからまだ間もない。
「ずっとローリングとかグランドの練習してない。かかるかなあ。」
 フリー54kg級、田南部力の得意技は強引な両足タックルから脚をつかんでの飛行機投げやアンクルホールド。今でもときどき坊やと言われるかわいらしい容貌で、まるで反抗期の少年が闇雲に世間へ抗うように突進していく。


 「辞めちゃおうかなあ……。」
 99年の世界選手権で決勝トーナメントに進出、ベスト8を、つまり五輪出場枠がかかった試合で田南部は負けた。その前年の98年、イランでの世界選手権で敗れたのと同じ相手だった。試合経過もほぼ同じ、負け方も同じ。この一年、積み上げてきたものを否定された試合だった。
 試合が終わった夜、宿舎の部屋では炊飯器からご飯の炊ける湯気が昇っていた。ホテルの食事だけでは足りなかったり、口に合わなくて食が進まない日本チームは米とレトルト食品、炊飯器まで持ち込んで部屋で食事をし直す。その夜も、炊飯器がある田南部の部屋には、ご飯を炊けるのを待って選手やコーチがお皿を持っては何度も出入りしていた。
 人の出入りが多い部屋で、寝そべったままの田南部は誰とも口をきかずにいた。試合についての話を聞こうとしても口が重く、ぽつりぽつりと言葉を絞り出すのがやっとだった。そして、最後に出てきたのはレスリングを辞めようか、だった。

 岩見沢農業高校に入学してからレスリングを始めた。それまで経験したことのない厳しさに馴染めず、寮を抜け出したこともあった。でもレスリングをやめなかった。始めて約1年半、高校2年生でインターハイ王者になる。
 成長期である高校時代に一年の年の差は即、体力差と実力差に繋がる。厳然とあるはずのハンデをはねのけての2年生チャンピオン。「高校2年でインターハイに勝っちゃったのが間違いだった。」とみずからの早熟を田南部は笑い飛ばす。
 日体大へ進学後、ケガに悩まされ、すぐにタイトルを手にすることはできなかったが96年、全日本選手権に優勝。以後、日本トップクラスを維持し続ける。ときに無意味とも思える、コーチから課せられるトレーニングもすべてこなし2000年のシドニー五輪出場を目指した。99年7月に生まれた娘には「夢叶(ゆめか)」と名付けた。

 田南部はいつも強気を通す。試合前には表彰台の一番上に昇るところまで想像するし、負けるなんて微塵も思わない。なのに、99年の世界選手権が終ったときにはレスリングを辞めようと本気で考えた。どうやって世界で勝ったらよいのか、自分は勝てるようになるのか分からなくなってしまったからだ。
 世界選手権から帰国したのは10月上旬。すぐ11月になる。レスリングは辞めると呟きながら、練習を続けていた。五輪二次予選への代表選考である全日本選手権は11月26日から始まる。レスリングを辞めるのならば、その大会へ出る必要はない。辞める辞めると呟きながら逡巡する日々が続く。

「そんなに言うんなら、辞めちゃえば?」

 とっちつかずの田南部に終止符を打たせたのは、妻の一言だった。
 「カミさんに言われたのがショックだったなあ。普段何も言わないのに。」
 田南部の生活の大半を占めるレスリングとそれにまつわることについて、普段は口を挟まない妻が、辞めると口では言いつつ辞められない夫の本音を引き出した。
 辞められるはずがない。五輪へ行かずにレスリングを辞めたら、自分の十年間を否定しなければならない。娘の夢叶に、名前の由来を尋ねられても本当のことを答えられない。
 そうして挑んだ2000年1月からの五輪二次予選で、田南部は好成績を残した。世界各地で全五戦おこなわれる大会の総合成績上位7カ国に出場枠が与えられる二次予選を3位で通過した。三戦目の東京大会では優勝し、表彰台の一番上に立った。


田南部の飛行機投げ ドニー五輪前の調整のために出場した2000年イワン・ヤリギン国際大会。ロシアのクラスノヤルスクで毎年開かれる賞金付きのこの大会は、毎回、旧ソ連地域を中心に強豪が集う。また、2キロオーバーの計量になるため、普段は一階級上の選手が無理に出場してくることも珍しくない。階級によっては世界選手権をしのぐ高レベルの闘いになる。にもかかわらず、54kg級はロシアの代表がもう決まっているからたいしたレベルじゃない、と田南部は言ってのけた。
 気にしていたグランドの練習不足の影響はなかった。予選第1ラウンドではローリングも飛行機投げも繰り出しテクニカルフォール勝ち。それでも「いつもだったら、あそこからフォールにいけるのに。」と不満げだった。予選第2ラウンドはフォール。決勝トーナメント一回戦ではシドニーに出場するモンゴルのトゥメンデンベレル(モンゴル)に1ポイントも与えないまま8−0で判定勝ち。準決勝でもモングシュ(ロシア)に7−0で完勝した。


田南部の決勝戦 そしてタエビ(イラン)との決勝戦。タエビは決勝まで来たことで、イランのシドニー五輪代表選手に確定した。イラン選手は、レスリングは国技であるとのプライドが高い。代表である誇りが実力以上の結果を導き出すことが珍しくない。 田南部が何度も両足タックルを試みる。強引に突き倒して脚を取ろうとするのだが取りきれない。決してきれいなタックルじゃない。ガツガツと力任せにぶつかることでぶつかられた者を驚かす。
「自分みたいな選手と試合するのは嫌だよ。だってやりにくいもん。」
 そのやりにくいはずの田南部が、さらにやりにくい相手に戸惑う。なかなか得点に結びつかない。延長戦までもつれこんだものの、8分33秒、4−1判定で敗れた。


決勝戦直後の田南部 日、田南部は体中が痛いとこぼしていた。
「一週間練習しなかったあとでも、こんな、体中が痛いなんてことない。」
 痛みに顔をしかめながら、その顔は笑っているようだった。ロシア人にだって勝てる。イランとも紙一重だ。世界に勝つ方法も見えてきた。課題は明確だ。今日はゆっくりすると決めて、練習場で他の日本チームの選手が体を動かすのを見つめていた。
 田南部の、力任せに鉈を振り払うように足下をすくうレスリング。アトランタ五輪の頃からの日本チームのエース、和田貴広が相手の動きも利用した、流れるような動きをするのとは対照的だ。目の前のマットで和田が練習をするのを見ながら田南部は
「自分のレスリングは、年を取っても続けられるスタイルじゃない。」
と呟いた。
 田南部力、25歳。シドニーオリンピックが彼のレスリングの集大成となる。


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レポート&写真:横森綾