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シドニー五輪アジア最終予選レポート

「白虹」

昔者荊軻慕燕太子之義 白虹貫日太子畏之

(『史記』鄒陽列伝 第二十三)


 虹、日を貫けり。
 はにかみがちな小さな顔から、怒気のような闘志は見えない。その代わり、レフェリーに右手でハンカチを示しながらマット中央へ歩む身体から、不遜な自信が青白く立ち昇る。


 62kg級、ルール変更により63kg級の選手だった98年秋までの和田貴広は、間違いなく世界チャンピオンクラスの選手だった。長い手足を最大限に生かしたロシアスタイルのテクニカルなレスリング。常に諸外国からマークされ、研究され追われる立場だった。
 ほぼ5キロ刻みで設定されている階級の壁は厚い。そのカテゴリーにふさわしい筋力に肉体を調整するには通常、2年はかかると言われる。しかし、彼はそれを1年以内でやり遂げようとしていた。金メダルと期待されながら4位に終わったアトランタに続き、五輪出場をもう一度狙うには大胆な決断だった。
 階級アップ表明から5ヶ月。99年4月、世界選手権の代表選考会を勝ち抜き、「引退」は少し遠のいた。しかし、待っていたのは階級アップの本当の壁だった。


 合開始前、膝を曲げずに腰から身体を折り、掌の汗をマットで拭く。緊張の現れであり、集中している証でもある。
 2000年4月26日、中国・桂林スポーツスタジアム。シドニー五輪の出場権をかけた最後の戦いで、和田は決勝戦に挑んでいた。
wada  目の前にいる決勝戦の相手、ファンは97年世界選手権69kg級2位の選手だ。普段練習している日本選手とレスリングのタイプが似ているため、苦手意識はない。昨年のアジア選手権では飛行機投げでしとめている。しかし、世界でトップクラスを争ったことのある本当の69kg級の選手だ。侮れない。
 先取点は和田が取った。片足タックルから後ろへ回る。堅実に1ポイント先取。 続いて1ポイント取り返される。パッシブを取られ、パーテルの下も堪える。ほ んの少し不安がよぎる。レスリングでは何が起きるか分からない。肩がマットに 付いたら終わってしまう。
wada  パーテルの下から逃れエスケープで1ポイントを得る。足しか抜けていない。 レフェリーとジャッジによっては、ポイントをつけないかもしれない微妙な得点。 でも、1ポイントついた。ずるいと言われても、実力じゃないといわれてもいい。勝てるのであれば。勝利への執着が、身体から白くはっきりと延びてくるのが見える。
 続けてタックルからバックを取り1ポイントを重ねる。3−1でリードし、1 ピリオドを終了する。


 99年の世界選手権代表となり、まず目標として掲げたのは筋力アップだった。他の69kg級の選手に比べて細すぎる。力負けし、グランドになったときの消耗が激しいのだ。
 しかし、思うように強化メニューが組めない。合宿の内容が自分の目的とまったく合致しない。来る日も来る日も、長距離走や長時間のスパーリングばかり重視される。レスリングの試合時間は6分。延長でも9分。なぜ、長時間息が切れ ないようにするための練習が必要なのか。問いかけても、納得できる論理的な答 えは返ってこない。
 疑問を持ちながらも強いられる毎日に、歯がゆさが増してゆく。確かに、代表 を取れたことから来る安心も確実にある。減量から解放された安堵も。
 だが、体重は70〜72kgを行きつ戻りつし、長時間の練習を強いられるとすぐに 70kgを切ってしまう。69kg級の選手の普段の体重は通常75kg前後。少しでもそこ へ近づきたい。でも増えない。いっこうに体重が増えず、筋力を強化できないこ とに苛立つ。不安を募らせ、10月の世界選手権を迎えた。
 日本での最終合宿から緊張の色は確実に見て取れた。話題を作ろうと話しかけ ても応じない。問いかける私をまっすぐ見ようとしない。誰にも、何も触れられ たくないとあからさまに示す。普段、巧妙に本音を隠す姿からかけ離れている。
 トルコに到着して、食事をまったく受け付けなくなった。ほとんど何も口にし ないまま試合に挑んだ。三試合を戦いすべて敗れた。自分の力が世界でどのくら いなのか、推し量れないまま世界選手権は終了した。41人中31位。今までで最悪 の成績だった。


wada ドニー五輪アジア最終予選決勝戦。第2ピリオドが始まると、ファンが動けないのがあからさまになる。前の試合で靱帯を負傷させられたのだ。歩くことさえままならない。普段の試合なら迷わず棄権しているだろう。しかし、この試合には五輪出場がかかっている。ファンも「最後だから」と繰り返しているのだろう。
 和田も1月末に右手首を痛め、治らないままこの日を迎えた。痛み止めを打っ て誤魔化している。スナップが利かないため、技のかかり具合が不完全になりや すい。だからこそマイペースに試合を作り始める。技を受けて返すカウンターレ スリングを繰り返す。ポイントを追加して合計7ポイント。どちらかといえば筋 力が強い方でいられた63kg級のときと同じ戦い方はできない。69kg級の戦い方が 見えてきた。そのビジョンがこの試合だった。
 2ピリオド目終盤を前に、ファンの最後の追い上げが迫る。


 99年10月の世界選手権で8位入賞できなかったため、シドニー五輪への挑戦は年を越しての二次予選へと持ち越された。
 年を越し、二次予選の五大会にむかった。第一戦10位、第二戦16位。体重はまだ 70〜72kgの間を行ったり来たりするばかり。それでも、軽い体でも通用する方法が見えてきたと漏らした。そして、第三戦の東京大会を迎える。
 1日目を順調に勝ち進み、2日目に準決勝進出をかけてバタエフ(ロシア)と 対戦する。技がかからなかった。力で撥ね返された。軽い体なりに通用すると思 ったレスリングができなかった。
 続く第四戦、第五戦への派遣をみずから取りやめた。最終予選は1ヶ月後に迫っていた。


 ドニー五輪最終予選前日。夕方に計量と抽選が終わり宿舎へ戻った。エレベーターホールで日本チームと一緒になった。質問しようとじっと顔を見ると、まっすぐ見返してきた。見るものの心を柔らかく射抜くまっすぐなまなざし。偽りの 心は一瞥で見通される。

 翌日の決勝戦。時間は今、4分を越えようとしている。スコアは7−1で和田のリード。
 ファンが片足タックルから1ポイントを取り返す。スコアは7−2。4分47秒、和田にパッシブが言い渡されパーテルを命じられる。69kg級として姿は細いかもしれないが、体が重く見える。腕の位置を、肘をつかずにずらして重心を取らせない。グランドで返されないテクニックを持っている。階級が違っても変わらぬ確かな力強さがある。堪えきりスタンドを命じられる。残り30秒を数える。顎を上げ、ファンを見下ろす。ファンとそのセコンドはうつむいて泣いていた。
 レフェリーに腕を上げられた瞬間、まっすぐに正面を見据えた。畏れることはない。信じてきたことは勝つために正しいことなのだから。
 白い虹が、いかさまの太陽を貫いた。


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レポート&写真:横森綾