小柴健二 インタビュー


 イバルがいる。1位と2位の差が激しいといわれる階級が多い状況の中、フリー76kg級には、ライバルと呼ばれる二人がいる。

 ひとりは太田拓弥。1970年生まれ。全国からレスリングの有名選手が集まる霞ケ浦高校から日本体育大学へ進学。全日本学生選手権3連覇。全日本選手権を三連覇。1996年アトランタ五輪では銅メダル。同年の全日本選手権で優勝し、そのマット中央にレスリングシューズを置いて引退のセレモニーとした。しかし98年、霞ケ浦高校教員を辞職、無職になりながらも現役復帰。
「ヤクザと同じですよ。指でも落とさなきゃ、やめられません。」野武士のような風貌で、レスリングに魅入られた自分を表現する。今年の4月からは和歌山県庁職員の職を得、ふたたび五輪を目指している。しかし、10月の世界選手権の代表権は持っていない。それでも諦めてはいない。「一度死んだ人間ですから。」悪あがきといわれようとも、次の五輪への道を作ろうとしている。

全日本選抜より  もうひとりは小柴健二。1972年生まれ。レスリングの盛んな群馬県太田市の市民クラブからはじめ、関東学園高校、その後日本体育大学へ。太田の2年後輩にあたる。大学4年のときに全日本選手権を68kg級で制する。アトランタ五輪へ向けては、国内選考会で当時同じ階級だった勝龍三郎に敗れ代表権獲得のチャンスを失う。1996年の全日本選手権から一階級アップ。メダリストとしてすでに知名度の高い太田拓弥と同じ階級となる。太田の引退後、常にトップに位置し、昨年の太田復帰以後もその位置を譲ってはいない。オリンピック出場権がかかる10月の世界選手権には、小柴健二が76kg級日本代表として出場する。

 1998年6月の全日本選抜選手権での決勝以来、太田拓弥と小柴健二は、何度も直接対決をしている。その多くは、日本代表の座をかけた闘いだった。そのうち数回を目にしているが、いずれも数字だけを見ると二人が僅差で競り合ったような印象を与える。しかし試合全体を思い返すと、いつのまにか自分のペースへ引き込んで小柴が勝利している試合が多かった。

 太田に勝ちつづけているとはいえ、世界での小柴の実績は未だ不十分だ。日本で唯一ライバルらしいライバルに追いかけられている彼の心境は、いかほどのものなのだろうか?

 
 
―― ちびっこレスリングで小学校4年生のときから始めてますよね。同年代の中では珍しいんじゃないですか?

小柴 そうですね。ちびっこからは少ないですね、僕の年代は。みんな高校からですね。ちびっこのときからもう高校に行って練習したりしてましたけどね。市のクラブで、週2回練習だったんですよ。で、だいたい日曜日は毎週、関学(関東学園高校)に練習行ってましたね。

―― レスリングは迷いなくずーっと続けていたんですね。

小柴 勝てなかったから。絶対強くなってオレ絶対勝てると思ってたから。そしたら4位だったでしょ。関学に進学して、高校では絶対勝ってやると思っていったら、2位だったでしょ。勝ってりゃあね、また違ったんでしょうね。満足しちゃった部分があったんでしょうね。大学入って、優勝してチャンピオンになったら『あれ、全日本勝てそうじゃん』て思って。ただ、最初から全日本なんて狙ってなかったですから。高校のとき全日本なんて知らなかったですもん。どんな選手がいるとか。ただ目の前、勝ちたくて。学生で、高校のとき勝てなくて、次は大学で。大学の中でチャンピオンになりてーなー、と思って。

 よかったですよ、日体大に入って。高校の時、草津の合宿とか行って大学生と練習やって、やっぱり日体かなあ、と思って日体大行ったんですけど。強いんじゃないですか?今、山梨あったり、日大いったりしますけど、日体、僕いたときは4年間ずっと。今はどうかわかんないですけど。一番いい練習やってるんじゃないですか?強いヤツが元々強いだけじゃなくて、弱くても強くなってくのが多いですよね、日体の場合は。僕だって高校でチャンピオンになってないじゃないですか。片山(グレコ76kg級、片山貴光)も違うでしょ。あれもインターハイ、国体行ってないし。矢山(フリー63kg級、矢山裕明)もそうだし。

―― 日体大卒業して、就職して。その後、所属がよく変わってますよね。

小柴 いま何個目かな。日体大出て、新日で闘魂クラブ。闘魂クラブ、今でも一応あるんですよ。石沢先輩とかみんないまでもそうなんです。アマでやってる人がいないだけです。僕がいたころから中西さんそうだし、永田先輩も闘魂クラブ。
 大学卒業するときに、選ぶ進路が大学の助手か新日だったんですよ。全日本4年でとって遠征行ったときに、藤田和之さんがそのとき新日本プロレス所属の代表で、よく話したんですよ。『もしよかったら来ないか。おまえだったら全日本チャンピオンだからたぶんとってくれるよ』て。いろいろ話聞いて、合宿とか海外も行かせてくれるし、じゃあいい機会かなと思って。ずっと日体で4年間やってきてまたそれで行くのもあれだから、場所を変えよう、て。練習は日体でずっとやってたんですけどね。

 あのときは遠征によく行きましたね。金とチケット渡されて『行って来い!』て出されて。飛行機の日程で二日くらい遅れてまだ事務所にいたりすると『なんでおまえらいるんだ、早く行け』てせかされたり。馳さんがいたので、馳さんが上に話をしてくれてそういうことは全部やってくれたんで。
 一人で遠征に行ったのはトルコですね。そのまま、帰りアメリカでサンキストカップの試合して帰ってきたりとか、全部そういうことやってましたね。またやりたいですね。面白かったですね。すごい寂しいけど。日本語話す人、誰もいないから。あの、イスタンブールだと日本人いっぱいいるじゃないですか。イスタンブールから1時間くらい入るアンカラだと誰もいないんですよ。すごかったですよ。面白かったけど。

 それから、そのまま日本に一泊してアメリカに行ったんですけど、ホテルとってなくて。協会に電話して『遠征の日本チームと一緒に練習したいからホテルの名前教えて下さい』て言って教えてもらって、ホテルの前でボケーッと日本チームが来るのを待って。現れたら『泊めてくれ〜!!』て頼み込んで。バック、でかいんだけど半分寝袋で。そのまま誰かの部屋に無理矢理泊まり込んで。(笑)

 今はそこまでやるのは難しいですね。みんな行っても韓国くらいでしょ。貴広(フリー69kg級、和田貴広)がこの前ロシア行ったくらいですよね、セルゲイの。

 あのころは、大学の教授とかに筋力トレーニングの相談で、どうすればいいかとかよく話を聞きに行ったりして。大学の先生に毎月毎月1年間ずっと測定してもらってたり。あのときは68で、体重、筋肉量増やさないけれども、筋力を強くするにはどうすればいいんですか、て相談して、そういうメニューとかやったり。76にするときは体重増やしたいからどうすればいいかとか。栄養の方でも、プロの栄養士やってる人が日体に勉強教えに来てて、どうすればいいかとか76でそういう話聞いたりして。

 新日の職員の仕事もしましたよ。10時から2時まで。電話当番とか、宛名書きとか、六本木のテレビ朝日のところで。面白いですよ。小学生くらいの声で電話がかかって来るんですよ。『すみません、グレート・ムタの毒霧てなんなんですか?』『(神妙な声音で)あれですか、あれは、毒です。』『そうですか、ありがとうございました!』(笑)  レフェリーとか、プロでやる話もありましたけどね。でも、まだ選手やりたかったから。まだ若かったしね。アトランタ前で、階級も68の時。

―― 新日の職員を2年やって、次はどこへ?

小柴 株式会社フジキチ。広島県の国体要員で、所属がフジキチていう、制服とかの卸会社なんですよ。
 ずっと、とりあえず、東京にいるじゃないですか、仕事しないで。よく神戸の方とか遊びに行ってたんですよ。で、神戸の高校生とかが国体のパンフレット見て『あれ、小柴さん無職ちゃうのん?!』なんて言われたり。(笑)神戸の高校生は面白いよ。『あれ、フジキチ?蒲鉾会社かな?』て、そりゃカトキチだろ。(笑)フジキチにいたのは96年の4月から12月まで。広島国体が終わって、次どうしよっかな?車のローンはあるし、て思ってて。

―― 見つかったんですか?行き先はすぐ?

小柴 97年の1月から3月まで静岡県沼津学園の非常勤講師。高校の体育の先生。こんな感じで所属している期間が短いから履歴書かくの、欄の数がもうギリギリ
 沼津学園では、東農大に行ってるジュニアの69の飯塚に教えたり。殆ど飯塚は僕とマンツーマンだったから。あれは死にそうになってましたね、ひーひー言ってました。

―― そのあと4月から自衛隊に行って。こんなに変わる人めずらしくありませんか?

小柴 珍しいみたいですね。

―― アトランタの時は、勝さん(フリー69kg級、勝龍三郎)にやられて。

小柴 ポロッと。『勝、32秒でケリをつける』て書かれちゃって。オレ、ケリつけられちゃったかと。(笑)

―― 結局あの時、勝さんオリンピック届かなかったですね。

小柴 そうですね。ぜひ行ってほしかったですね。

全日本選抜より―― で、そのあと階級を1コあげて。あげたときはきつかったんじゃないですか?

小柴 とりあえず、減量きつかったから、ちょっと階級76にあげて。オリンピック前に体重が増えれば76でやって、増えなかったら69に下げよう、ていう話で上げたんですよ。あと、太田先輩(太田拓弥・アトランタ五輪銅メダル)が出てたから、やっつけたら目だつな、と思った。それ目だつから全日本74で、76でやってみよう、と思ったら軽く、かる〜く負けちゃった。ハハハ(笑)コレで予定が狂っちゃったなあ、と思って。確か2−0だったなあ、延長で。
 太田先輩とは大学の1年の時にはじめてやったときから、ずっと競った試合ばっかりだったですね。負けてばっかりだったけど。

―― 今、他の階級は1位と2位の差が激しいじゃないですか。で、76だけ近い人が、太田拓弥選手がいますよね。他の階級より切羽詰まった思いが強いんじゃないかな、と思うんですけど。

小柴 太田先輩に関してはそんな、切羽詰まった思いはないですけどね。とりあえず世界選手権に勝てばなんの問題もないから。
 最近、ケガ多くて。76に上げて、筋力のバランスが崩れたんですよね、体重だけ増えて。今、筋力トレーニングをずっと世界選手権までメニュー組んでやってるんで。近藤さんて自衛隊のスポーツ科学科の人と組んで、アジア選手権終わって世界選手権まであと2キロは増やしたいんでお願いします、て。僕、ものすごくウェイトトレーニング嫌いですけど、メニューを組んでもらって、説明してもらって、納得すればいくらでもできるんですよ。
 だいぶ今、体重も増えてきて、増えたわりには動きもいいし、だから今、いまやっと76の筋力が付いてきたのかな、と。今までだとやっぱり、76の筋力じゃなくてやってきたから、やっぱり怪我が多かったのかな。で、この間イランで太田先輩とやったとき(99年2月、タクティカップ)も腰、怪我しちゃって。めっちゃめちゃ痛かったですよ。試合中、イタタタタタタ!て。(笑)アジア選手権もそんな感じで。
 でも、試合に負けてもしょうがないですからね。反省はしますけど。次だ次だ、て。あれは本番じゃないから。

アジア選手権―― 去年のアジア大会は?(98年、バンコク、銀メダルを獲得)似たような状況だと思うんですけど。

小柴 組み合わせで、1回戦でモンゴルの世界5位のヤツに勝てば、ま、決勝いけると思ったから。世界の2,4,5,8,9位がいたんですよ。結構上位がいたんですよ。2,4,5位のうち、メダルとかじゃなくて、どっかひとつは食いたいな、と思ってて。そしたら、1回戦で5位とあたったんで。ま、それをやっつけたから、まあまあ。ま、それでいいかな、と思って。
 世界選手権は、76の筋力をつくって、あとは自分のイメージ通りのレスリングスタイルにもっと近づければ。スタンドで勝負ですね。グランドそんなにたくさんの技を持ってない、ていうかやらないんで。スタンドでタックル、相手を崩して、崩して、というのが僕のイメージしたものです。やっとだいぶ出来てきて、ていう段階なんで。これで煮詰めていけば、かなりチャンスはある。もうちょっと。今でもかなり、アジア選手権の時とだいぶ違うと思ってるんで。8位以内に入るだけの力はつくはずだと。厳しいには厳しいですけどね。でも、体調ベストにもっていけば。チャンスはたくさん!
 世界選手権では、自分の世界でのポジションを決めに行くような、確かめるような感じで。向こういったときに、いろんな国の選手と、試合前にスパーリング、肌あわせて、慣れてみて、自信つけてやろうかな、と。技術力とか体力とかより精神面とかそういうことで、ベストの状況というのがいいでしょうね。

―― 目に見えて劇的に変化するような強化の仕方じゃないから、じっくり見てくれない人からはよくわかってもらえないことあるんじゃないですか?

小柴 運動選手としてすれば当たり前だと思ってますから。でも、キツイよぉ。もうオレ、まじで〜。キツイ。考えるとキツイですね。いつも考えてないから。いざ考えると、うわぁー、きついなあ。

―― 今のナショナルチーム、同期が多くて楽しいでしょ。気兼ねもしなくていいし。上の人も、小幡さん(130kg級、小幡弘之)くらいですね、フリーだと。

小柴 そうだ。やべ、オレ、オッサンだ。

―― なに言ってるんですか。そのうち子供の同級生に『おじさん』て呼ばれるんですよ。

小柴 ぶっ飛ばしてやる。(笑)

―― 子育てはどうですか?

小柴 いや、かわいくて。(声のトーンが上がる)子供最高。

―― 最高ですか。もう、何キロになりますか?

小柴選手と亮太くん小柴 4月30日に生まれて、そのとき3570gで。3ヶ月なる前に測って7キロちょっと。

―― 3ヶ月で7キロ?子供て、そんなもんなんですか?

小柴 標準の一番上。ギリギリ標準。

―― 重くて奥さんだけじゃお風呂に入れられないでしょ。

小柴 いつも僕が入れてます。僕、満点パパだから。おっぱい飲んだあと、ちゃんとげっぷさせてね。ときどき戻しちゃうけど。休みの日はドレミ館で買い物だし。

―― もうかなり表情出てきて?

小柴 もう、あやすと笑うし、目でおどけるし、かーわいい!朝起きて笑ったら、これで練習やめちゃおっかな〜とか。(笑)

―― 合宿とか行っちゃうと、寂しいですね。

小柴 寂しいですよ。帰ったらすぐだっこしちゃう。

―― 結構長く遠征に行って帰って来てもお父さんの顔をちゃんと憶えてます?

小柴 どうなんですかね?だっこすると誰にでも笑うから。愛想いいよぉ。誰かが見たらニコーッて笑う。

ニコーッと笑う亮太くん―― 愛想の良さはお父さんに似たんじゃないですか?やっぱりレスリングやらせます?

小柴 スポーツは自分のやりたいことをね。フリーかグレコどっちか。(笑)自分で選択して。

―― 合宿で会えない間は電話かけて、子供を電話口に出させたりするんですか?

小柴 (携帯電話を見せながら)子供の声がコレに録音してあります。(録音を聞く)電話してるのかな?て思ったら聞いてるの。(電話の録音をききながら、一オクターブ高い声で)うわ、かわいい〜。

―― (泣き声の録音を聞かせてもらいながら)コレ、いつの録音?

小柴 生まれてすぐ13日の。いっぱいあるんですよ。6つあってね、4番あたりにいびきが入ってる。

―― 今ナショナルチームて、子供がいるのはフリーチームだと二人だけですよね。

小柴 僕と力(54kg級、田南部力)だけ。グレコには子作り王、西見先輩がいますから。二人いるでしょ。川合、彼女いないんだけど『子供ほしいんですよ』て言ってますよ。

―― ナショナルチームの人たち見てると、まあ、あれだけあっちこっち出かけてる生活していたら結婚するのも大変だろうな、と思いますけどね。人と知り合うきっかけ全然ないじゃないですか。ボーッとしてたら。

小柴 だから、ファンを作ってやって下さい。まず僕からだけど。(笑)

(1999年8月3日:池袋で収録 インタビュアー:横森綾)


 
全日本選抜とアジア選手権の写真提供
ワールド格闘技レスリング情報(樋口郁夫)
http://www.cnet-ta.ne.jp/p/people/kaku4.html

亮太くんの写真提供:もちろん小柴選手