BoutReview
記事検索 by google
news

[PRIDE.21] 6.23 さいたま (8):ドン・フライ vs 高山善廣


DSE "明治生命L.A. presents PRIDE.21" 6月23日(日) さいたまスーパーアリーナ [ → カード一覧に戻る]

メインイベント 「プロレスラーVSプロレスラー。拳に賭けた正面激突」
○ドン・フライ(米国/フリー)
×高山善廣(日本/フリー)
1R 6'10" レフェリーストップ(マウントパンチ)

 マーク・コールマン欠場のあおりで突如決まったプロレスラー対決。
 遺恨もなければ、タイトルを巡るストーリーもない。いわば空いたメインの穴埋めに呼ばれた高山だが、ただの消化試合で終わらせることをよしとしなかった。

 高山はPRIDE二連敗中とはいえ、勝つことよりも、「自分に出来る最大のパフォーマンスとは何か」を考えたに違いない。ドン・フライもイベントの性格を知り抜いたプロフェッショナルだ。プロレスラーを職業に選んだ二人はそこに爆弾を仕掛けた。それは“バーリトゥード(VT)の競技性の枠の中で行われたプロレス”とでも呼ぶべき、壮絶な闘いであった。もちろん勝敗が決まっていたわけでも、大技を決めるための受け合いがあったわけでもない。MMAの様々な技術の攻防を脇において、ひたすら二人の大男が死力を尽くして殴り合い蹴りあう。そのエネルギーのぶつかり合いを見せることで客に饗しようとしたのである。

 もちろん真剣勝負であることは大前提だが、あえて技術や必然的な展開を飛び越えて、気迫と体力をぶつけあったこの試合。前回PRIDE.20での菊田早苗VSアレクサンダー大塚戦とは陰陽で一対を成すものと言えよう。全く違う角度から“格闘技のプロイベント”の在り方を問う試金石として、またもやファンの心に波紋を投げ掛ける“壮絶な実験”となったのだから。

 リング中央で、両者が顔面を触れ合わんばかりに寄せ合い視線を交錯させる姿は、この直後の壮絶な闘いのプロローグであった。
 試合はひたすらのド突きあいで、幕を開けた。
 リング中央でノーガードのまま左右のフックをぶんぶんぶつけあった両者は、そのままお互いの首を取り合う形で、なおも高速のパンチを回転させ続けた。この形は路上での喧嘩で言えば襟首の取り合い。高山は得意のヒザも降り混ぜつつ、フライも最短距離のショートフックをひたすらぶち込む。その間に両者の意志は固まったに違いない。とにかく相手の肉体を破壊する。タックルも、ガードも、ポジションも、サブミッションもない。これは、肉体の破壊ショーだ、と。

 目を閉じる閑もない。パンチの数も数えられない。首を取り合った二人の大男がただひたすら、腕ももげよとパンチをぶつけあう。もう子供の喧嘩である。パンチの的確さ、相手へのダメージではフライの方が遥かに上回っていたのは明らかだ。しかし、こんな状況でそれをくらべても意味はない。この大男達が振り回す拳は、一発のラッキーパンチがアゴを打ち抜くだけで、試合を終わせる威力を秘めているのだから。それに、彼等のゲームは、すでに公式ルールブックの上のそれとは明らかに違うものになっていた。試合結果としてどっちが勝とうと構わない、二人が潰れるまで拳を振り回し、顔面を潰しあうことで、勝つのはこの二人だ。観客が抜かれた度肝の数を二人で山分けする闘いが、その独特のルールの正体だったのである。まさにその世界観は、純粋プロレスの文脈の観客論と変わりはしない。僕が先にこの試合を“VTの競技性の枠の中で行われたプロレス”と呼んだのは、そういう意味である。

 そんなアップテンポの肉弾の打楽器乱打の中でも、ドン・フライの入れるアドリブは、巧妙なグルーブを叩きだしつつあった。首の持ち手をすばやく変えての左右のフック連打、角度を変えて死角からアゴを襲うアッパー。このフレーズ、このコンビネーションは、宿敵ケン・シャムロック戦でも見せたものの変奏曲にほかならない。
 一方高山は決してそんな器用なコンビネーションを誇るプレイヤーではない。だが、武骨なフレーズの要所にはプロレスラーとしての主張が透けて見える。打投極を三種の神器に頂いたUWFをキャリアの振り出しに選び、つい一カ月前には新日本プロレスでトップの一角を誇る中西学とのバックドロップ合戦を繰り広げたばかりの高山にとって、豪快な投げは自己主張の強力な武器だ。右の脇を刺したところで、普通のテイクダウンではなくフロントスープレックスを繰りだしたのは、その現れである。だが、投げの直後、立ち上がろうとしたフライの頭部へ、すかさずヒザをたたき込んだのは、ただの見せ技として使ったのではなく、あくまで計算ずくのコンビネーションであったことの証明でもある。
 だが、その必殺のフレーズでもフライは倒れない。二台のダブルバスドラムは、またもや壮絶なワンフレーズの乱打に雪崩れ込む。すなわち、右のパンチの壮絶なたたき込みあいに、だ。

 壮絶に変形した高山の顔面はすでに、受けたパンチの数を数えることも放棄したくなるような壮絶な様相を呈している。しかし、一方ドン・フライはアゴを引いて高山のパンチを側頭部で受けているせいか、まったく変形の気配を見せていない。あるいは顔面までがタフなのか? 
 ようやく高山がフライの両手をかんぬきに捉えたために、怒涛のアドリブ合戦に一応のフェルマータ(延長休符)が打ち込まれた。だが、頭をごりごりと高山の顔面に押し付けたフライのプレッシャーは、音符を吹き飛ばしてまたもや力強い低音のパンチをゴン、ゴン、と高山の顔面に響かせ始める。
 対する高山はフライの首に両手をかけると、くるりとロンドを踊った。コーナー際で体を入れ換え、今度はフライの分厚い腹に、高山のヒザがぶちこまれていく。一瞬、体をひいて、全音符の思いっきりのジャンピングニーを決めようとした高山だが、フライのパンチのタイトなリズムは、それを貰いっぱなしにしない。左右上下と打ち分けられる小気味よいロックビートの顔面パンチが、高山のロンドのリズムを分断していく。すでに両目がふさがりつつある高山は、標的の定まらないパンチより、首を抱えてのヒザにたよるしかないのだろう。しかし、パンチで距離を開け続けるフライの拳は、高山のそうした首相撲を許さない。次第に高山のエンジンの、回転が落ちてきたのが感じられる。

 ここで島田レフェリーが一旦、ドクターチェックを要求した。
 あまりにも高山の顔面が徹底的に破壊されたからである。
 しかし、試合が再開されるやいなや、二人はリング中央でまたもやバカの一つ覚えのようなワンツーの無限ループを叩きだすではないか。だが、本来なら失笑を買うような単調のリズムが、こんなにも熱狂を呼ぶのはなぜだろう。無意識に、我々の心臓が、アドレナリンという第三のドラマーを得て、そのリズム合戦に参加しているからにちがいない。
 休むことは許されない。殴り合うリングの二人も、2万2千人の観客も、そしてPPVでこの闘いを見守る世界中の観客も。この光景に関わりあってしまったすべての人間は、リング中央の二人のいずれかが、マットに倒れ伏すまで止まる権利を有していない。まるで伝説の赤い靴が踊るダンスのような、そんな恐るべきループを、そして磁場を、この試合は発していた。
 これはすでに健全なスポーツの範疇で語られる試合ではない。

 そもそも人間が殴り合い、首を締めあうような競技には、どこか狂気が宿らねばおかしい。スポーツの競技性で完結しえない、原初的なロゴスとエネルギー。暴力の神と言ってもいいだろう。そうした常軌を逸した力を祝福する何かが、格闘技の中心にはあるのだ。
 例えば闘牛などは、スポーツというより、このジャンルに共通するそうした感性の産物だ。闘牛士は、何のために死を賭けて牛の形を借りた暴力に向かっていくのだろう? ただの肉牛の屠殺ではない。かといって、ただの運動競技の要素だけでもない。それは見るものの興奮と一体化した儀式であり、人間の理性を飛ばした彼方に有る一つの境地を得るための装置でもある。人が暴力と死に肉薄するための通路と言ってもいい。その依童として、マタドールは牛と闘い、リングの上で格闘する人間が必要とされる。
 普段、我々は格闘技をルールの有るスポーツとして楽しみ、その枠内で選手が技量を争い、勝利に向かうそのひた向きな態度を、理性の範疇で楽しむ。
 しかし、時にその枠ぐみを越えた、なにかがその場に立ち現れ、我々をトランス状態に陥れる。例えばタイソンVSホリフィールドであり、バンナとマイク・ベルナルドのゴング無用の殴り合いやレイ・セフォーとマーク・ハントのノーガードのド突きあいもそうだ。時に格闘技は、会場の観衆を忘我の状態に陥れるような場を作り出してしまうことが有る。

 まさにこの試合はそんな試合となったのだ。
 技術でもなければ、見せ掛けの気迫でもない。闘うもののエネルギーが、欲得を越えたひた向きな没頭が、拳を振るうことにだけ魅せられた狂気が、知性を吹き飛ばした境地へ人を誘ってしまうのである。選手に望まれるのは、その境地を一秒でも長く維持し続ける体力と、体に染み付いた技能で、そのレイブ状態を転がし続けることのみ。もう勝利も敗北も、ここには意味を失った空間が生じているのだから。

 首を取り、腰を引いた高山のヒザが繰りだされると、フライは捻りを加えたアッパーを突き上げる。リングを右往左往する二つの肉体の発する熱量だけがすべてだ。フライをコーナーに押し込んだ高山が、二度目のフロントスープレックスに失敗する。マウントを奪ったフライの振り下ろす狂熱的なパンチの最中に、僕が無意識に“オーレ!オーレ!”の叫びを上げていたのは、まさにそれが神に捧げられた、狂熱の最中に居たからに違いない。

 スポーツとして、格闘技としては不細工な試合だった。
 しかし、すべての闘いが希求するものの本質は、明らかにこの場に降臨していた。ならば、そこに作為が有ろうが無かろうが、それはそれでいいではないか。
 顔面を潰してまで、繰り広げられた、このスペクタクルに今はただ敬意を評したい。

■ドン・フライ 「VTにピリオドを打つのにふさわしい試合だった」

「高山は本当にタフだった。これまで戦った選手の中で最もタフだったよ。素晴らしい戦争だった。どんな試合も予想通りにいかないものだけど、まさか高山があれほどタフだとはね。 
(コールマンとの対戦意欲はまだあるか?)今はこれから試合を続けたいかどうかも分からない。もともとこの試合を最後にして新日本プロレスに戻ろうかと思っていたから。もしまだ試合をする機会があるならコールマン、チャンピオンのノゲイラとはやってみたいとは思うが・・。今日の試合が私のキャリアの中でのベストバウト。先のことはまだわからないけど、ピリオドを打つのにふさわしい試合だったと思うよ。」

■高山 「次はきれいな顔で会見できるように」

「藤田選手とやった後の感覚に似たものがありますね。でも、あれより悔しいです。確かに顔はボコボコなんだけど、あのレスリングの強豪と差し合ってもそんな負けてなかったしね。(控え室に)帰ってきてから試合の映像を全部見たんですけど、最大のチャンスがあって、そこのところを生かせなかったかな。何て言うんですかね、お客さんの『高山コール』がすごい聞こえてきて、いい意味でも悪い意味でもノッちゃったなという感じですね。だから悔しいという気持ちが過去2回(のPRIDEでの試合)以上あって。
最大のチャンスっていうのは1回(フライを)転がして、ひざ蹴りが入った時ですね。テープを見たら結構入ってたみたいなんでね。僕はやっているときは『入んなかったんだ』と思ったんですけど。テープを見たら、おでこが切れてて、その後グラっときてパンチが入ったじゃないですか。マウスピースなんかふっ飛んでたんで『あそこで冷静に(パンチを)入れたらな』と控え室に帰ったときに思いました。
(試合が)終わった後、脳はフラフラしてたんだけど、息は全然上がってなかったんですよ。準備期間は無かったんですけどコンディションは最高だったんで、余計に悔しい気持ちがありますね。今日でまた欲が出ましたね。確かに負けたんだけど、何かどんどん自分が上がっているような気がしたんでね。次はきれいな顔で会見できるように頑張ります。」

■アントニオ猪木・PRIDEエグゼクティブプロデューサーのコメント

「あれだけ殴り合えば、高山は悔いは無いんじゃないですかね。フライは凄いな。藤田もそうだけど、あんな打たれ強い奴と戦うの嫌だな(苦笑)。
(森下社長は8月のイベントは考えていないと言ってましたが?)俺からは詳しい事は言えないけど、ぶつかってた日程は上手く解消できる。まあ、いろんな事があっ ても、結果が良ければいいんじゃない? 」

[ → カード一覧に戻る]

[ → 掲示板・PRIDEスレッドに投稿をお待ちしています]


Last Update : 06/24

[ Back (前の画面に戻る)]



TOPPAGE | NEWS | REPORT | CALENDAR | REVIEW | XX | EXpress | BBS | POLL | TOP10 | SHOP | STAFF

Copyright(c) 1997-2002 MuscleBrain's. All right reserved
BoutReviewに掲載の記事・写真・図表などの無断転載を禁止します。
著作権はマッスルブレインズに属します。

編集部メールアドレス: ed@boutreview.com