[チームゼロス] 新潟県中越沖地震で被災の小潟義明が試合出場
▼ (8/11 up) 7/16の新潟県中越沖地震で被災した、柏崎市のチームゼロスの代表兼選手の小潟(おがた)義明が、8/5に横浜赤レンガ倉庫で行われた全日本キック認定・はまっこムエタイジム主催興行に出場した。柏崎市にはまだ地震の爪痕が深く残るが、そんな中でも小潟が試合出場を決意したのはなぜか? 試合前後、横浜の会場で話を聞いた。(井原芳徳)
−−チームゼロスのジムと小潟選手自身の被災状況等を教えて下さい。
小潟「地震の直後はジムにも行けない状況でした。両親と妻と子供1人の5人で暮らしていて、給水車に水を取りに行ったり、風呂に入りに隣の市に行ったり、といったことばかりをやっていましたね。 僕の自宅は壁に穴が開いたぐらいでしたが、全壊や半壊のジムの生徒さんもたくさんいます。ジム生は60人ぐらいいて、今のところ何とも無い人はいないですし、連絡がまだ取れていない人もいます。つい最近メールで連絡があった子の家は、役所の人の検査で危ないと判断されて入れなくなって、車の中で暮らしているそうです。今日の僕の試合も、ジムの子が5人応援に来てくれてますけど、本当はもっと来てくれる予定が、やっぱりみんなダメになったり。 ジムに初めて行った時は、ロッカーやテレビや資料関係や練習用具、ありとあらゆるものが倒れました。一番凄かったのはサンドバッグですね。リングを取り囲んで鎖で吊ってあった60kgぐらいのサンドバッグが、地震の揺れの遠心力で、リングの中に入っていたんですよ。3階なんでその分揺れが激しかったんでしょうね。 ジムの建物自体のひび割れは無いです。ただ駐車場は割れたり段差ができいていて、ジムの近くには半壊の家もあります。水道、電気は戻っていて、ガスももうすぐ来ると思います。 7月22日のR.I.S.E.は敏暴ZLS(としぼう ぜろす)をはじめ、アマの選手も出場できなくなってしまったんですけど、会場で義援金を集めていただきました。J-NETWORKさんと日本修斗協会さんにも支援活動をしていただいています。以前いたジムの先輩の風田陣さんのピロクテテス新潟をはじめ、近隣のジムの会員さんが救援物資を持ってきてくれたり、お金を集めて、『何か買って会員さんに配って下さい』と持ってきてくれたり。そういうのが凄く助かりましたね。」
−−地震の前に今回の試合が決まっていたわけですが、当然、練習はできなくなりますよね? 欠場も考えられたと聞いています。
小潟「練習が再開できたのは、地震から10日ぐらい経った、先週の半ばぐらいですね。(今回の大会を主催する)はまっこムエタイジムのユタポン前田会長に、出場は無理かもしれないと連絡したところ、『今回のことは仕方ない。無理に試合に出てもらうのもどうか。また来年も開催するので』と暖かい言葉を頂きました。 地元の周りの方からも同じようにそういった暖かい言葉をかけて頂いて、本当に言葉に言い表せないぐらい感謝しています。でも同時に、『次もあるから』という言葉に甘えてしまうと、なんか負けたような感じもしたんですね。それで先輩の風田さんに『風田さんだったらやるよね?』と聞いたら、『俺だったら親が死んでもやるよ』って。その言葉を聞いて『やっぱそうだよな』と思ったのが一番の出場の理由ですね。 実際、道路の修復とかは業者さんとかがやってるけど、僕ができることって無いんですね。今、僕はチームゼロスの代表の仕事だけなんですよ。トレーナーとかもいなくて、僕一人でやってるんですよ。まだジムに来れる生徒さんも少ないし。風田さんにも『僕らができることは一つしか無いんだから、やってこい』と励ましてもらって。 出る事に決まったら、以前所属してた長岡のジムや、風田さんの新潟のジムに出稽古に行かせてもらいました。長岡まで40kmぐらい、新潟まで100kmぐらいです。最後のほうは自分のジムで集中して練習しました。」
−−とはいえ、余震とかも不安でしょうし、気持ち的にも試合に集中できる状況では無かったのでは?
小潟「うーん、そうですね…。正直今も、戦うという気分では無いですね(苦笑)。相手のヌンポントーンは身長もだいぶ違うし、僕がMAキックのミドル級でやっていた頃(2000年までMAに出場し、ミドル級で最高3位だった)に無茶苦茶強かった選手ですし。港太郎選手と昔やってるの見てて、こんなタイ人とやりたくないな、って…」 その対戦相手、ヌンポントーン・バンコクストアーは、ムエタイの殿堂・ルンピニースタジアムでライト級3位まで上がったことのある選手。ピークは過ぎてしまったものの、この日も老獪なテクニックで小潟を寄せ付けず、序盤から膝蹴りを何発も当て苦しめる。 だがリングに上がってからの小潟の表情には、インタビュー後半でふと見せた弱気の色は無い。ガムシャラに力を振り絞り、左フックと右ローで前に出る。3R開始前、小潟の一番の相談相手となった風田からも「根性出して行こう!」との声が飛ぶ。
結局最後まで形勢は変わらず、試合終了間際には、ヌンポントーンの強烈な前蹴りで、小潟はロープまで吹き飛ばされてしまう。だが残りわずかの時間でも、小潟は立ち上がって突進していき、勝負をあきらめなかった。「『次もあるから』という言葉に甘えてしまうと、なんか負けたような感じもしたんですね」と言葉にした小潟の意地が、試合の中で最も伝わって来た瞬間だった。
試合後のリングアナウンスでは、小潟とチームゼロスが地震で被災した件、会場で募金活動が行われている件が紹介され、観客からも暖かい拍手が起こった。小潟は風田に支えられながらマイクを持ち、「ぜんぜん動けず申し訳ありません。うちのジムにはまだあとに続く選手たちがいるので、頑張って指導していきたいです」と話した。 試合直後、再び小潟に話を聞いてみた。
小潟「やっぱり動かないですね。膝が来るのはわかってたんで、最初ガマンして、ローキック効かせて、後半に上を狙おうという考えだったんですけど、動けなかったですね」
−−そんな苦しい中でも、最後まで立ち向かっていった姿が強く印象に残りました。
小潟「最後の意地で。倒れたら終わりなんで」
−−実際、被災直後に試合をやってみて、どうでしたか?
小潟「やってみて、やっぱ良かったですよ。試合できて。地震あった後に試合したこと自体、いい経験になると思いますし、地震うんぬん抜きでも、相手が強くて、いい経験になったんで。うちのジムは新潟でも田舎のほうで、今までジムも無かったけど、田舎のジムでも頑張れば都会で試合ができるというのも示したかったんで」
小潟と会場で別れてから数日後、本人から、各団体やジムの関係者に、改めて支援のお礼の言葉を伝えたいということで、Eメールでメッセージが届いた。その言葉でこの記事を締めくくりたい。 「ユタポン会長、全日本キック大会関係者様には今大会の会場で義援金など地震に対しての支援活動を行っていただき深く感謝いたしております。 またスタッフやご来場の皆様にも励ましの言葉やあたたかい声援をいただき、本当にありがとうございました。 R.I.S.E様にも興行の際に支援活動をしていただき義援金を送っていただいたり、応援のメッセージを頂戴しました。 J-NETWORK様、日本修斗協会様でも支援活動を行っていただいてます。 また県内外のたくさんのジム関係者様や会員の皆様からも支援活動、励ましの言葉をもらっています。 すべての団体、関係者様、そしてご来場いただいたお客様にも心より御礼申し上げます。 自分達は地方の小さなジムですが皆様の暖かい気持ちに感謝して、少しでも日本の格闘技界の発展に貢献できるようなジムになれるように頑張っていきたいと思います。」
<関連リンク> チームゼロス公式ホームページ
Last Update : 08/11 14:15
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