06/15
大阪から広島へ。
このタイミングでK-1取材はカンベンしてくれという気分もある。しかし、今だから見ておかなければならない光景、今しか生まれない化学反応もあるはず。
早朝、無理矢理寝床から身を引きはがして、精進潔斎のつもりで頭を剃り直す。スキンヘッドにしてみて、一番の発見はコレかもしれない。気分が後ろ向きになったとき、頭を剃ると気分が変わるのだ。
杜撰にやると、すぐ頭皮が切れて血がにじむ。勢い、手元に集中せざるを得なくなる。手順を守ってじっくり作業に専念していると、雑念が飛んで行く。作業療法のような側面があるのだ。
頭皮の刺激にもなる。脱皮ではないが、表皮に付いた余分な脂や古い皮質が取れるせいか、非常にすっきりする。きっと、頭のツボのような所も刺激しているにちがいない。
移動中読んでいたのは、山口瞳と開高健がそれぞれ前後編を分担してまとめたサントリーの70年史「やってみなはれ、みとくんなはれ」(新潮文庫)。
この二人の作家は、かつてサントリーの宣伝部に所属、「洋酒天国」という伝説のPR誌を編集して一世を風靡したコンビ。当時、オトナの遊び心をテーマにしたこの雑誌は大いに話題となり、「洋酒天国」欲しさに配布店を訪ねるファンが続出したという。要するに、気の利いた雑誌欲しさに酒場に集う嗅覚の鋭い読者が山ほど居たということで、Hot Pepperの割引券を片手にチェーンの居酒屋にコムスメ、コムスコが群れ成すのとは訳がちがう。
その後、開高が芥川賞、そして山口が直木賞という日本の二大文学賞を相次いで受賞。人気作家を輩出したことで、「洋酒天国」の株はさらにあがったわけだが、なにより驚くべきはサントリーという企業の自由闊達さだ。
というのも、この二人、なにも脱サラしてから作家として成功した訳ではないのだ。まさに「洋酒天国」の編集をやりながら、その合間に書いた小説で作家として立ったのである。雑誌の内容も、商品べったりのチラシまがいのものではなく、好奇心の赴くままに作られた遊びの精神満載の娯楽誌。彼らの文学趣味や才覚を活かして、自由に“遊ばせた”結果、その空気感に客が反応して「洋酒天国」はブレイクしたわけだ。
いわばサントリーは、修業時代にあったこの二人の作家の卵の、パトロンのようなものだったのである。
大作家となった後も、この二人の作家と企業は良好な関係を維持し、いくつものヒットコマーシャルのコピー製作やCM出演という形で関わり続ける。
そんな二人が、サントリー70年の歴史を“作家の目”で、じっくり分析したのがこの本。決して太鼓持ちのような露骨なヨイショではない。山口は鳥井信治郎の気まぐれでヤマ師的な資質をかなり厳しい目で浮き彫りにしており、続いて戦後編を描いた開高も、洋酒メーカーとして爆発的な成功を収めておきながら、その成功を全て食いつぶすようなビール開発に邁進し、経済的苦境に立つことを厭わなかった“成り上がり企業”の浮沈を辛辣なユーモアで描いている。
だが、そうした苦闘のなかから浮かび上がってくるのは「何でもやってみなわかりまへんで」が口癖だったと言う鳥井信治郎の想い、すなわちいかなる障壁にぶつかっても新製品開発に余念のない、この会社のチャレンジャー精神である。
鳥井同様、明治生まれの起業家で、生涯会社を作っては潰しを繰り返した父を持つ山口はこう書いている。
「いったい、その突進力は、どこから生じたのだろうか。ヤミクモに突っ込んで行く、その突進力は。私はそれを「青雲の志」と名付けたい(中略)今日、私が一杯のサントリーを飲むことは、明治の青雲の志を飲む事に他ならないのではないか。私は、実感としてそう感じる」
そう、本来、企業とは営利団体であると同時に、『企業精神』というものを背負った一つの大きな“生命体”であり“哲学集団”でもある。創業者が「俺にしか出来ない事」と思い定めたテーマを、法人として受け継ぎ、拡大させて行く集団でなくてはならない。
サントリーが、洋酒を売るだけのドメスティックな営利企業に留まらず、才能ある若い才能を育てることをも、自由闊達なチャレンジ精神の一部として実行できたのは、その底流に創業者・鳥井信治郎の「やってみなはれ」精神があったからだ。面白い物ならなんでもチャレンジしてみよう。意味のある事がそこにあるなら、恐れずに前に進もう。そんな想いが、一見商売のプラスにはなりそうもない酔狂な雑誌の創刊を許し、二人の日本文学史に残る作家の誕生をサポートした。企業としても、その副産物として優秀なCMや洗練されたイメージを得、単なる洋酒メーカーとは言えない社会的存在感を得る事になった。
読み進むうちに、不覚にも目の奥が熱くなるのを禁じ得なかった。
翻って俺にはまだ青雲の志が残っているだろうか?
Boutreview創刊から八年。事あるごとに、この業界がイヤでイヤで仕方がないと愚痴をこぼしてきた。馬鹿げた光景、あきれるような言い草、ぞっとするような愚かさ。いくつものネガティブな事象に晒され、その度に僕のフットワークは悪くなり、書く物は愚痴っぽくなって行った。
最初にこのページを作り始めた時に感じた、あの充実感や前のめりな思いを忘れてはいないか? もう十分やり尽くしたなどと、思い上がった事を思っては居ないか?
そんなものは嘘っぱちだ。
いくつもの目を反らしたくなるような現実を目の当たりにして、立ちすくまざるを得なくなった臆病者のいい訳でしかない。チャレンジすべき事を忘れたら、人間は、企業は、媒体は、全ての運動体は終わりだ。僕個人にもBoutreviewにも、まだやれる事、やるべき事はいくらでもある。
「やったろうやんけ…やったるわ、見とけよ」何の根拠も無いくせに、そんな言葉が呪文のように口をつく。何度も何度も、自分に言い聞かすようにそうつぶやくうちに、いつの間にか広島の街が迫って来ていた。
03/19
■故人を知る人のコメントの大半が「彼らしい死に方」的なトーンの、諦め半分、微苦笑半分のコメントでまとまってる中で、吉村海坊主こと吉村智樹がただ一人「もう誰も酒を飲むな」と泣き崩れたような文体で、遺された者の痛切な苦悶を表明している。刺のように刺さる一文で、異様にリアルでもある。
ファンの立場から誰かを見上げてしまった人間の、愛憎相半ばした、胸をかきむしるような想いが伝わる。これ読むだけでも、お値打ちの一冊。
対照的だったのは、モブノリオの作文。対象が見えていないし、書くべき事も何も無いのがミエミエ。そもそも文学賞に屈折しまくったルサンチマンのあった中島らもを、なんで彼に語らせたかったか、この部分に関しては編集者の意図を疑う。はっきり言ってしまえば「場違い」。
例えて言うなら、「たこ八郎の弔辞をアイドル歌手に読まれてもなあ」…って感じ。
■河出書房のこのシリーズでは内田百間、岡本綺堂、山田風太郎、山口瞳、中上健次なんかの懐古特集ものがよくて、ポロポロ読んできたんだけど、改めて考えてみると「a guidebook to young persons about dead writers」って感じで物故作家ばっかりなのね。らも氏の登場もその路線?
そういえば、大昔に別冊新評とか、別冊面白半分とかの作家読本があって、その流れもあるだろうね。びっちり一冊作家の特集する雑誌ってありそうでないから。アレは当時の現役作家ばっかりだったけど。
で、このシリーズの面白い所は、作家にこだわらずにプレスリーとかジミヘン、植村直己なんかも取り上げてる所。らも氏はまだ仏さんとしてはホヤホヤだけど、死人特集のシリーズと見ればフォーマット的には正しい訳だ(笑)。
物故つながりなら、70年代に河出のスター作家だった広瀬正とか、あと開高健に半村良とかもやって欲しいなあ。だんだんそういうのが重なって「死んだらKAWADEの夢ムックで特集されたい」みたいなのが作家の夢になっていったりすると面白いねえ。
でも、シリーズに出て来てる鈴木清順も江口寿史も庵野秀明も押井守も一応生きてるか…まあ、その辺はアレだ、おむつ、おむつ、おむつ…
■それにしても、わかぎえふ。
没後の週刊誌のインタビューにはしたり顔で出ていって、肝心の追悼本に出て来ないって、どうよ?
当事者同士いろいろ経緯はあったんやろけど、やっぱ好きになれんなあ。
03/18
第二次大戦前のパリ、比類なき快楽追求者・ローマ王ヘリオガルバスの物語を描きつつある文学者アルトナン・アルトーの前に、一人の日本人によって、織田信長が殺人淫楽者で両性具有であったという異端の説を記した草稿「信長、あるいは戴冠するアンドロギュノヌス」が差し出される。その書を入手せんと躍起になる第二次大戦前のナチスドイツと、謎の日本人・総見寺の暗躍。知らず知らずに謀略ドラマのまっただ中に巻き込まれて行くアルトー。独裁者ヒットラーの躍進の背景に、この悪の書が果たす恐るべき役割を描く伝奇ロマン。
好きですねー、こういうの。ブクオフの100円棚での発掘なんで、今時の新刊じゃないけど。冒頭を立ち読みしただけで、ぐいぐい引き込まれてたもんなー。
とはいうものの、僕の好きな現代史秘話みたいな部分はあんまりフィーチャーされてなくて、もっぱら作者の筆は“書物内書物”であるの、血にまみれた異形の織田信長像を描き出す事に費やされる。
個人的な感想としては、半村良と山田風太郎の間を縫いながら、ちょっとどっちにも振り切れなかった感じ。様々に繰り出した歴史的事実と妄想のピースのマッチングにもちょっと難あり、といったところか。膨大なアイディアと奇想が矢継ぎ早に繰り出されて、非常にスリリングではあるのだけれど、その一個一個が未消化で、完全に腑に落ちきったとは思えないものが残る。
具体的なエピソードをそれぞれ倍の量書いて、運動量で読者を引きずり回せば、同じ材料でも十分納得を引き出せたのかな。当然それを水増しなしに面白く読ませる力量が問われるんだろうけど。
その意味では、いくつかの核心部を、さらっと現代編の「語り」で処理してしまった部分が、ヘッドアレンジで終わってしまってる感じ。現代(正しくは第二次世界大戦前)の登場人物をカットバック的に挟んで、歴史の闇に光を当てて行くスタイル自体は好きなんだけどね。山田風太郎の忍法帳的シーンとの整合感が薄くなっちゃってて、これも難点か。いっそ、歴史編と現代編を切り離して二部作みたいにしちゃうと、すっきり読めたのかも。
でも新人の第一作としては十分すぎる成果。「日本ファンタジーノベル」大賞受賞ってことで、その枠の性質を考えての現代劇化だったのかもしれない。ストレートな伝奇時代小説だとインパクトが弱かったかもしれないし。そのせいか、受賞後のこの人の嗜好はどんどん歴史ものに収束していった模様。この続編にあたる作品も秀吉を描いてるけど、もう現代劇へのフィードバックはやってないみたいだし。
スパイ物、伝奇物好きの僕としては、ちょっと残念。