↑誤字ではない。
“正義”という曖昧で、気分任せの価値観の、解釈法についての話。
最近は特に、物事に短絡的に白黒を付けたがる人間が多い気がする。
格闘技という、時間限定でとっとと白黒の出る、結果の明快な(はず)の闘争が、見せ物として流行っているのも、そのせいかもしれない。
ただ、本当に明快である事、きちんと筋の通った結論を求めているかと言えば、案外そうでもない。実際にその白黒を付ける方法論は、その時の気分任せで曖昧だったりする。大声で押し切ったり、脅しをかけたりで、見た目の「白星」を取る事に執心する「正義」のなんと多い事か。権力には沈黙を貫くくせに、権力の無い人間には、声高で強硬だったりするケースもご同様。判定の一番肝心な所でグレーゾーンに足を突っ込みながら、形ばかりの「判決」を下して、見せかけの安心を買おうとする。
結局「自分の正義」を他人に押し付けないと落ち着かないだけで、「真実」などどうでもいいのかもしれない。早く、見せかけ上すぱっとしている事、自分の言い分が「間違いでない」という証明をインスタントに欲しがっているだけなのだ。
また局所的な“正義”を貫こうとする事で、大局に成し遂げられようとしていた“理想”が押しつぶされたり、逆に大の虫を生かすために、小の虫が殺されるような事態が起きたり。宗教戦争の例を引くまでもなく、結局「正義」ってのは陣取り合戦で勝利した人間へのご褒美でしかないのか? という気がしてくる。
かように正義を巡る問題は、常にあさましい人間のエゴの押し付け合いに終始する傾向がある。
人と人が平等だというなら、その欲望も等価だ。一人一人にそれぞれの立場があり、守らなければならない価値も多種多様。
我慢強く条件をすりあわせ、歩み寄れる余地を探す事以外に、対立の解決法などない。常にどんな局面でオールマイティに『正しい事』など、この世には所詮あり得ない。
だが、「正義の人」は常に性急だ。声高に「自分の正義」を言い立て、その「正義」の名の下にオール・オア・ナッシングの結論を要求する。そして、頭に血が上った勢いで、「俺には三分しか無い。お前悪い、だから殺す」でスペシウム光線発射。
自らが主張する事が「正しい」と思えるなら、なぜ結論を急ごうとするのか? 瞬間の正義感で、「自分にとっての悪人」にマシンガンを乱射するような事が、彼の正義には合致するのだろうか?
「性急な正義の味方」は、何がしたいのだろう?
僕自身も、気が短いというか我慢が無いほうなので、自分自身への問いとしても問題提起したい。
証拠が出て来ないから、許せとは言わない。
しかし、相手の言い分を完全無視するのが正義だと言われたら、ちょっとその正義に疑問を突きつけたくもなるではないか?
スピーディーな冤罪より、時間をかけた真実追求。
スローがいいのは料理だけじゃないはず。
ヤミクモに多数決を言うわけではないが、説得力の薄い「正義」を行使しようとする人間は、いつかその「正義」を支えるためにイカサマを持ち出さなければならなくなる。
「正義」とは結局、理の首尾一貫性であり、その理屈でどれだけ多くの人の賛同を得られるかで生まれる。一人の人間の声の大きさや、権力の都合によって生まれる「正義」などあってはいけない。
そして、多くの人間の理解を得るためには、自分が争ってる相手の状況や気持ちにも配慮して、ゆっくり着地点を見出すべきである。もっと話し合いを、もっときちんとした真相究明を。でなければ、誰も報われない。
「俺の気持ちは誰にも判らない。悪人で結構」と捨て台詞することも、「お前は所詮猾いやつ」と決めつけて印象だけで相手を糾弾することも、結局短気と言う点ではそっくりだ。
そんな「短気」に押しつぶされようとしている「何か」は、そこで息の根を止められてしまっていいほど、無価値なものではないはず。
僕はその事を思って眠れないのだよ、兄弟。