Hideto Ida's Blog 〜 時に放浪、日々朦朧 〜

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02/14  なぜ闘うのか? / [contact sports:格闘と葛藤]
相変わらず驚くほど治らないこのインフルエンザ。
仕方が無いので、ずっと家でおとなしくしているしかないのだが、現場を離れていると思う事も多い。

このところずっと考えているのは、「なぜ格闘技なのか」という問題。
格闘技サイトを主催し、格闘技関連の文章を書き、その他ビジネスでも格闘技関連の商売をいくつか手がけて、世間的にも“カクトウギの人”ということで看板が掛ってしまっている僕だが、その“何故”に明快な答えらしきものが無いのが現実だったりする。

確かに物書きになりたいという志望はずっとあった。
それもあってジャーナル方面で仕事をしてきたわけだが、今、格闘技がメインテーマになっているのは、成り行きに近い。書き手としてはむしろ別に書きたいものがあるし、遅かれ早かれ“一生の仕事”としてそちらをメインにするつもりでもある。

ではなぜ今もこの場所に居て、この仕事をしているのか。
一つには、自分が目撃したこのジャンルの勃興の風景が、最終的にどこに落ち着くのかを見届けたい、という欲望がある。

もちろん、スポーツとして好きであり、今あるこのシーンに愛着もある。
だが、そんなファン意識よりも、「“格闘技の象徴するべき何か”が我々の目にしているシーンには、まだ存在しない」事、それが格闘技ジャンルを言葉にする仕事に、僕を踏みとどまらせている最大の理由では無いだろうか、最近頓にそんな気がしてならなくなってきた。

通り一遍の言い方をすれば、格闘技はゲームであり、スポーツだ。
だが、人間同士がお互いを殴り合い、関節をねじり上げるという過酷な方法でしか成立しないスポーツというのは何だろう?

本来文化の文脈から外れた“暴力”を取り込んで、あえてゲームとして制御しようとする試み。通常のスポーツとして考えるには、あまりに過剰だ。

その骨子は、他人の肉体を屈服させ、完全にコントロールし、優位な立場に立つかに尽きる。技術としての暴力を“成文化”して行く競技。かろうじて目を突かない、噛み付かない、金的を行わないといった紙一重のルールで“死”を遠ざける事によって、スポーツとして成立している。ルール=理性を、「殺さない」という最後の一枚まで脱ぎ捨てて、人間が他人に対峙する光景。

格闘技のリングを見つめれば見つめるほど、人は心理の奥の危険な部分に肉薄していくことになる。

この“紙一重”感が、他のスポーツと格闘技との違い、であり、“格闘技でなければ成立しない境地”を生み出す理由でもある。

勝者の雄叫びは、他者を力で制圧した快感に直結する。
一歩間違えればファシズム肯定にも肉薄する、暴虐性を秘めた感情。

しかし、僕らはそれに魅せられ、目を反らす事が出来ない。

「何故人は闘うのかーー何故他人を力で支配する行為が快感なのか」

この問いになんらかの答えを出せない限り、僕はこのシーンから離れる事を許されない気がしてならない。


投稿者 井田英登 at 19:48