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12/29  【格闘技】と言う名の曖昧な領域(3)〜RINGS活動停止問題 / [contact sports:格闘と葛藤]
今回は連続コラムの最終回ということで、 K-1 WORLD GP と大みそかの「猪木ボンバイエ」の比較を中心に、格闘技における「競技」と「ショー」の縦横軸を分析していこうと思っていた。

だがEXpressの発行二日前になって、驚くべきニュースが舞い込んできた。

皆さんもすでに御存知の通り、RINGSが活動停止を発表したのである。まだRINGS自体は来年2月15日の横浜文体大会を残しており、活動停止後もショット契約の選手を集めてのプロモーション形式で運営を存続するという噂もある。少なくとも来年4月までは所属選手との契約もTV放映も残しているわけで、団体崩壊という言い方はまだ早計かもしれない。

<関連記事> 前田社長がリングス活動休止宣言 [12/27]
 

ただ実際、エース前田日明の引退後、動員の減少、大会規模の縮小は目に見えて明らかだったし、所属日本人選手の離脱あるいは前田代表を巡る個人的なトラブルなどネガティブな話題が相次いだ。そうした過程で、かつて時代のリードオフマンとして格闘技人気拡大の一翼を担ったこの団体が、無残なほどファンの求心力を失うのを我々は見てきた。僕はこの現象の中にも、「競技」と「ショー」の縦横軸の問題が大きく関係していたのではないかという気がしてならないのである。

そこで今週は予定を大幅に変更して、RINGS活動停止問題を中心に「競技」と「ショー」のバランスを考えていきたいと思う。当初予定していたテーマは次号以降に持ち越しとしたい。

■第二次UWF〜初期リングスにファンが見た夢

RINGSの直接の母体は、1988年に旗揚げされた第二次UWFといっていいだろう。新日本プロレスに所属していた前田日明、高田延彦、藤原喜明、船木誠勝、鈴木みのるらが集結し「格闘技としてのプロレス」を追及した彼らの活動は、“Uイズム”なる言葉を生み、当時、プロレスから失われつつあった格闘の迫真性、勝負論を正面に打ち出すことで多くのファンの支持を集めた。

しかし実際のところ、彼らの中にも明快なスポーツ的格闘技へのアプローチはなかったようで、旧来のプロレス技術と興業論との相克の中から、泥縄式にひな形を作り試合を行っていた観がある。

そんな彼らが会社運営などの問題から1991年三派に分裂。高田をエースに旧来のプロレス最強神話への回帰を打ち出したUWFインターナショナル、船木・鈴木・シャムロックを中心にマニアックな関節技合戦を売りにした藤原組が早々に設立された。一人残された前田日明は、Uイズムの中核にあった格闘技色をより明快にした形で、世界的な格闘技選手のネットワークを提唱しRINGSを設立。UWFルールを軸にした異種格闘技戦路線で、U系プロレスファンに「総合格闘技」という呼称を流行させることになった。

正直いって、当時の彼らのスタイルは今でいう「総合格闘技」から程遠い。

現在の柔術やレスリングを基礎にした競技デザインはまだ生まれていなかったからだ。当時のRINGSにあったのは、個々の選手がそれまで修練してきた「打/投/極」のばらばらの技術を、統一ルールの元にただぶつけあうだけの原初的光景であった。洗練には程遠く粗削りな技のぶつかりあいは、今となっては失笑ものかもしれない。それに前田の基板となったプロレスの技もまだまだ当
時のRINGSでは有効な技術とされており、大味な逆エビ固めで勝負が決まってしまったりするシーンは、今のファンが見ると説得力に欠けるものに感じるだろう。

ただ技術的には泥縄であっても、RINGS ルールには大きな見せ場があった。それは試合が一発のダウンや一回の極めで終わってしまわないポイントシステムだ。いわばワンチャンスで勝負する今の総合格闘技と違って、ミスを犯した選手が生き残って逆転を狙えるというゲーム感覚の面白さがあった。他団体でも採用されていたが、出場する選手のジャンルの幅が広いRINGSマットでは、ポイントシステムの良さが大いに引き出された。今となっては決着を遅延するだけのシステムとして退屈なものに受け取られるかもしれない。

しかしすぐに決着を目指さず、漫然と技の展覧会が繰り広げられるプロレスを見慣れた当時のファンにとって、ダメージの指標が目に見える形で示されるこのシステムには、目からウロコの面白さがあったのだ。いわばこのルールに隠された大衆的なゲーム感覚が、そのまま「ショー」としての楽しさを生み出していたわけである。

加えて当時のRINGSは、コマンドサンボをはじめとした世界の格闘技全体へ敷延させる「RINGSネットワーク」と呼ばれるビジョンを提示。さらには通常ルール以外での試合を実現する「実験リーグ」がマニアックなファンの嗜好をそそった。ファンとしても、時代の変化の最先端で同じ理念を抱えた “運動体”に参加している気分を味わえた。「世界最強の男はRINGSが決める」というキャッチフレーズがその気分を象徴していると思う。

■「93年革命」の追撃

だがその栄華は長くは続かなかった。1993年、RINGSは突如3つの新興団体から時代の最先端の地位を脅かされるようになる。

まず5月、RINGSネットワークの一部に取り込んでいたはずの正道会館が離脱し、 K-1グランプリをスタートした。

立ち技オンリーながらワンデイトーナメントで“世界最強の男を決める”この大会は、RINGSの内包していたスター主義や世界構想を具現化。素人目にもわかりやすいノックアウト至上主義の決着や、地上波ナンバー1の視聴率を誇ったフジテレビの全面的なバックアップもあり、シビアな「競技」としての認知をお茶の間の観客にまで広げるとともに、「ショー」としても大成功をおさめ、 RINGSを凌駕する存在にのし上がった。

続いて9月には藤原組の船木・鈴木ら若手が中心となりPANCRASEを旗揚げ。

当時1ダウン=3エスケープと設定されていたRINGSのルールに対して、PANCRASEは1ダウン=1エスケープという過酷なポイント削減をはかった。さらにチョークスリーパー、グラウンドでの掌底での顔面攻撃も解禁、UWFからの「競技」性を先鋭化した世界を提示してみせた。特に旗揚げ戦では、勝負が1分以内で決着する「秒殺」が続出、それがそのまま流行語となるほどの勢いを見せ、勝負論の点でRINGSを剣が峰に追い込んだ。

さらに追い打ちをかけるように12月、UFC(アルティメット・ファイティング・チャンピオンシップ)の第1回大会がアメリカで開催された。過激さはPANCRASEの比ではない。いわゆる「なんでもあり」と呼ばれる「バーリ・トゥード(VT)」ルールの登場である。その衝撃的なルール設定は、格闘技というより武道、スポーツというより決闘という地平から発想されたものであり、あ
る意味K-1やPANCRASE以上に「競技」の輪郭を明確にしたものだった。一方でマウントパンチやオクタゴンに象徴される生々しいヴァイオレンス映像がノーカットでTV放映され、その「ショー」的要素が格闘技界のみならず世間一般にも大きな反響を呼び起こした。

「93年革命」とも呼ぶべきこの三団体の追撃によって、「競技」と「ショー」の両面から挟撃を浴びたRINGSは、否応無しに方針転換を迫られる。従来のプロレスを追撃することで倍々ゲームのようにシェアを延ばしてきた“Uイズム”だが、すでに時代はそれを越える新しい局面を迎えていたのである。確かにRINGSは限りなくプロレスの極北を目指して進撃をすすめてきた団体ではあっ
たのだが、その端々にはプロレスから受け継いだ悪弊が色濃く影を落としていたのも事実である。

完全実力主義を標榜しながらも、メインイベンターを中心にしたスター主義が幅を利かせ、試合展開においてもロープエスケープに代表されるように、勝負論よりゲーム性を重視する“遊び”が残っていた。これらはプロレスから格闘技への過渡期には有効なクッションとなったのだろうが、「93年革命」を経て「競技」としてのシビアさを求められる時代を迎えると、古色蒼然としたものに映ってしまう。結局最後までこれらを捨てきれなかったことが、この団体の首を絞め続けた感は否めない。

翌 94年1月、RINGSのメガバトルトーナメントを制覇した前田日明は、Uインターや PANCRASEとの対抗戦をぶちあげることで「ショー」としての充実を模索したが、結局両団体との交渉は実らなかった。また「競技」性の権化であるVTへのアプローチも、シューティング(修斗)が開催したVTJ '95で愛弟子・山本宜久(現・憲尚)がヒクソン・グレイシーに敗れたことで大きく停滞した。

かくして「ショー」としての拡大もならず、また「競技」としての練り直しもならず、RINGSは結局93年生まれの後発団体にトップランナーの座を譲り渡すことになる。さらに97年のPRIDEの勃興を期に斜陽の度を増し、99年の前田の引退で顕著となった。すでにVTベースのリアルな総合格闘競技が、NHB(ノー・ホールズ・バード)あるいはMMA(ミックスド・マーシャル・アーツ)と
呼ばれ世界標準として普及しつつあった当時、RINGSのルールデザインは、「競技」としては詰めが甘く、「ショー」としても刺激に欠けるものとして時代に取り残されてしまった。

観客動員の低下は明らかだった。前田日明という「ショー」の目玉を失ったRINGSは98〜99年、Uインターを離脱した田村潔司を入団させ、RINGS生え抜きの日本人との対決で活性化を図った。しかしちょうどその頃、高田延彦がUイズムの代表としてヒクソンとの対決に乗り出したが、二度とも無残に完敗。リングスの選んだ路線は、すでに伝説の崩壊したUイズムというコップの中の嵐
に過ぎなくなってしまい、かつてのファンの興奮を呼び戻すことはできなかった。

そしてようやくRINGSは93年以来の「宿題」に本格的に手を付けざるを得なくなる。要するに総合格闘技の世界標準であるNHBの導入である。それはこれまでかたくなに鎖国を押し通してきた“Uイズムの牙城”RINGSが、自由な選手市場へも乗り出すきっかけとなった。99年秋、ネットワーク外の選手をも含めたオープントーナメント・KING OF KINGS(KOK)を開催。ついにエスケープを
廃止し、オープンフィンガーグローブの採用、スタンドでの顔面パンチ解禁で一気に「競技」としての先鋭化を図ったこのトーナメントは、ヘンゾ・グレイシー、アントニオ・ホドリゴ・ノゲイラ、ヒカルド・アローナなど、これまで鬼門であったブラジル人ファイターを大量にリングに上げたことで、停滞していたRINGSマットに一気に追い風を吹かせたように見えた。

しかし、結局PRIDEやUFCを通して標準的なNHBを見慣れた日本の多くの格闘技ファンにとって、グラウンドでの顔面パンチを認めないKOKルールは、やはり「競技」としても「ショー」としても中途半端なルールとして、十分評価されることなく終わってしまったのだった。


■そして再び前田は一人になった

加えて、マーケティング能力や資金力に優れ、「ショー」としての性格を明確に打ちだしたPRIDEという巨大プロモーションの成功が致命傷となった。PRIDEには既存の「所属選手」という概念が存在せず、選手寿命への道義的責任を持たない。そのルールで戦うかどうかは選手の覚悟に任せられ、過酷な条件を設定する代わりにギャラは弾む。むしろ選手の覚悟や危険への挑戦が、試合の中
に生死を賭けた緊張感を生み、「ショー」の演出装置にもなる。

一方のリングスは前田自身が現役選手を経て経営者になったせいもあり、選手寿命への道義的責任に敏感だった。だが選手層の固定はイベントをマンネリ化させ、旬の選手を見たいファンのニーズに反することとなる。さらには所属選手の安定した生活を保証するための固定給が、団体経営を徐々に圧迫。この春に相次いだ選手大量離脱も、この経営方針が維持しきれなかった結果であろう。

団体経営の動脈硬化が進んだのは、前田日明のトップダウンでしか方針を決められなかったという「個人商店」的な構造にも原因がある。対するPRIDEはDSE(ドリームステージエンターテイメント)に経営移管した前後から、ブッキング(選手招へい)、広報、営業、会場演出など、それぞれのスペシャリストが分業方式でビジネス展開していく「近代組織」となった。森下直人社長は絶対的なリーダーではなく、スタッフをとりまとめる調整役でしかない。

新日本プロレス時代、ワンマンリーダーのアントニオ猪木の背中を見て育った前田には、PRIDE型の組織をイメージできなかったのかもしれない。だがもしマット上で追及された「RINGSネットワーク」が、団体経営にも似たような形で反映されていたならば、今の惨状には至らなかったのではないだろうか?

何しろ選手に限らず RINGSのフロント陣・社員には優秀な人材が多数いた。例えば前田の高校時代の空手の師匠・田中正吾氏は、新日本プロレスからRINGSに至るまで独自の格闘技観で前田の理論武装を助け、 TV中継では解説も務めるなどファンの信頼も厚かった。社長を務めた黒田耕二氏は 興行界へのルートも太く、興行団体としての基礎を築くのに欠かせない存在だった。 そして日本サンボ連盟理事長の堀米奉文氏はRINGSのスポーツ団体としての権威の後見人の役割を果たしていた。

またその下で働いていた社員達も、今や格闘技界の中枢を占める人材にのし上がっている。PRIDEを始め各団体に優秀な選手をブッキングすることで知られる“ブッカーK”こと川崎浩市氏、DSEの広報・石黒雅史氏、日本修斗協会事務局長の若林太郎氏、さらに前田の個人マネージャーを務めた内田統子女史も現在はノゲイラ、スぺーヒーらをブッキングする立場となっている。

しかしRINGSが活動休止を迎えた今、その屋台骨を支えた彼らの姿は、全て南平台の事務所から消えている。

第2次UWFの解散の時と同じく、前田はまたも一人になっていた。それぞれの理由はあるだろうが、結局リーダー前田の示す方向の中に己の居場所を見いだすことができなくなったため、彼らはRINGSという船を降り、自ら新天地を求めることになったのだろう。皮肉にも彼らの離散が結果として格闘技界全体の発展をもたらしたというのは言い過ぎだろうか。

「格闘技界の梁山泊」とも言うべきこの陣容を見るにつけ、もし彼らがそのままRINGSに残っていれば、RINGSは今のPRIDEどころではない成功を手にしていたのではないかという気がする。

■時代に追い越された前田日明の夢

こうして分析してみると、RINGSの10年は「競技」と「ショー」の軸の間を揺れ動き、定まる場所を持たなかった歴史といえるのではないだろうか。

ファンは試合内容やスター選手を見るためだけに高い入場料を払うのではない。その向こうにある団体のポリシーや、観客に提供しようとするビジョンに共感することで、初めて会場に足を運ぶのである。その意味で、ファンを巻き込んだ形でUWFを“運動体”と呼ばれる存在として成功させ、RINGSの初期に至るまで「格闘技の時代」の礎を築いた前田日明の功績は大きく評価すべきである。

現に各団体で活躍する選手に「ヴォルク・ハンの関節技に魅了されて格闘家を目指した」「リングス○○という支部を学校に作った」という過去を持つ者も多い。RINGSの蒔いた種は、確実に格闘技界に鮮やかな花々を咲き誇らせている。

だがRINGSは時に「ショー」的な価値観を重視しすぎるがゆえに「競技」としての先鋭性を失い、また「競技」としての世界観にこだわりすぎて「ショー」としてのダイナミズムを失った。この繰り返しでRINGSは運動体の軸が定まらず、結果ファンも離れていった。そしてRINGSの掲げた“世界最強の男を決める”コンセプトは、いつの間にかPRIDEが具現化させていた。こうした形でRINGS
が徐々にその運動エネルギーを使い果たした末、ついに再点火できないまま「活動停止」してしまうことは、かつて一ファンとして夢を膨らませた身として非常に辛いものがある。また一格闘技メディアを主宰する立場としても、ファンとリングをつなぐ一本の道になることができなかった事に大きな悔いが残る。

「こないだのPRIDEの大会なんか、RINGSの大阪大会やんけ」

今年9月24日に大阪城ホールで開催されたPRIDE.16を指して、前田日明はそう発言したと聞く。確かにKOK王者ノゲイラ、無差別級王者アイブル、ミドル級王者アローナ、そして愛弟子の山本憲尚といったRINGS離脱組が集まり大成功をおさめたこの大会を、彼がそう表現したくなる気持ちはわからないでもない。RINGSが同じ人材をそろえていた数年前、その栄華を達成できなかった事
への悔しさの素直なあらわれだろう。だがその言葉を聞いた時点で、そのわずか3ケ月後に前田の口から活動停止が発表されるとは僕は思いもしなかった。

今から思えばあの言葉は、前田が活動停止を暗示した事実上の「敗北宣言」だったのかもしれないと思うと、胸が痛む。

思えば前田日明という人は「ファンの意識改革」を常に語ってきた人でもある。「理想と現実は違う。何かを変えていくんやったらリング上の現実を検証してからや」というのが、 前田の口癖でもあった。先鋭である事よりも、ゆるやかな「草の根活動」でファンを巻き込み、運動体としての前進をイメージし続けたこの人のビジョンは、ある意味70年代前後に社会変革を夢見た若者たちの方法論にも重ね合わせることができるだろう。

しかし既に時代は、個々人のばらばらな欲望のベクトルを「マーケティング」という形で統合する時代へと変化していたのである。

イズムよりも、統計的に直接的な需要を分析し、そしていち早く満たす。そんなフットワークの軽いプロモーションこそが「時代の気分」を捉え支持される。こうしたトレンドを読み切れなかったことが、RINGSの、そして前田日明の最大の誤算だったのではないだろうか。


※BoutReview EXpress [Weekly] Vol. 009 (Sat, 29 Dec. 2001)より

投稿者 井田英登 at 01:00


12/22  「【格闘技】と言う名の曖昧な領域」(2) / [contact sports:格闘と葛藤]
物事には常に何らかの比較対象があって、初めてその輪郭がはっきりする。

前回書いたとおり、既に総合格闘技がプロレスのサブジャンルだった時代は終わった。総合格闘技が独自のスポーツジャンルとして認知され「格闘技の時代」に入った今、その幅や奥行きを明確にする座標軸を考えて行かなければならない。その座標軸をもとに、日々行なわれる一つ一つの試合の意義をきちんと検証することが格闘技ジャーナリズムの役目である。

まず総合に限らず格闘技全般を「一定のルールのもと、勝敗を争うことを第一義として行なわれるファイティングスポーツ」と定義してみよう。この共通認識の元で行なわれるイベント/試合が、主に僕らの考えていくべきフィールドとなるが、その中心には一切の虚飾を廃しルールの求める最短距離で勝敗を決する「競技」という価値観がある。この価値観をもっともシビアに追及しているのはアマチュアである。柔道や空手、レスリング、サンボ、柔術、ボクシング、キックボクシング、そして総合格闘技と総称されるさまざまなミックスルールの「競技」が、日々これほど盛んに行なわれている時代は(古代ローマのパンクラチオンを除けば)おそらく世界史上初だろう。“自らが参加できるスポーツ”としての格闘技が一般に浸透している現状は、今の格闘技を読み解く一つの鍵である。

これまで長い間プロレスを含めた総合格闘技のリングは“プロフェッショナル”の独占市場であった。そこに上がるためにはプロ興業団体の徒弟集団に入門し、プロのイベントに順応した肉体と価値観を身に付けることが必然とされた。いわば“道場”という一般人からは覗くことのできない密教的空間での“修業”を経て、初めてプロ格闘技者として生きることを認可されていたのである。ある意味それはイベントに従事するプロ以外を“格闘技選手”として認めないという排他的な構造である。

最下層の新弟子として入門し“体育会”的なヒラエルキーの最下部に属することを由としない人間は、格闘技に関わることを断念せざるをえない。

プロレスが結局ストレートに競技スポーツになれなかったのは、こうした商業的要請を大いに含んだ“職能集団”以外に競技を行なうことを許さなかったことも一因だろう。「人気」や「見栄え」という商業的要請によって競技内容が操作されるスポーツに「競技」という価値観はそぐわない。

しかし93年からスタートしたUFCがこの構造を壊した。一介のアマチュア格闘家であったはずのホイス・グレイシーやヒクソン・グレイシーが並みいるプロ格闘家を破ったことで、格闘技におけるプロ寡占の時代は終わりを告げたのである。

彼らはセミナーやジムなどのオープンな空間で自らの柔術テクニックを一般人に指導して生計を立てるビジネスモデルを確立した。格闘家の養成機関が“道場”から“ジム”に広がる時代が訪れたわけである。この出来事が総合格闘技の世界に「競技」という価値観を根付かせるきっかけとなったわけだ。そして以前から「競技」化へ向け地道な環境整備を進めていた日本の「修斗」や「大道塾」がこの流れに応じたことでその傾向はますます強まった。決してかんばしい結果は残せなかったとはいえ、93年3月UFC2で市原海樹(当時大道塾)がホイスと戦い、同年7月には修斗主催の「ヴァーリトゥードジャパンオープン'94」が開催されるにいたって、総合格闘技の「競技」化は勢いを増した。

世界各地で雨後のタケノコのように総合格闘技や柔術を教えるジムが出現し、総合格闘技は誰もが学ぶことのできるオープンな「競技」であるという認識が高まった。むしろプロ寡占の時代を「総合以前」と位置づけ、93年が総合格闘技の本当の始まりであったとすべきなのかもしれない。

一方総合格闘技の普及は、「競技」というアマチュアイズムとは90度違う方を向く「ショー(イベント)」という発想を生んだ。「ヴァーリトゥードジャパンオープン94、95」を二連続で制し、当時「競技」の頂点に立つとされていた「トップ・アマ」のヒクソンと、プロレスラー最強を標榜していた「トップ・プロ」高田延彦の対戦が行なわれたPRIDE.1は、その注目度の高さから東京ドームという巨大空間で行なわた。既にドームにおける純粋格闘技興業はK-1やボクシングが先鞭を付けていたものの、それまで独自のスポーツイベントとしてのブランド力を蓄えた後ドームに進出したこれらの競技とは違い、PRIDEはワンカードの魅力、そしてスペクタクル性を強調してドームに乗り込んだのである。

いわばマッチメイクの話題性で観客の興味をあおる“プロデュース先導型”の大会であり、「ショー」という価値観がこの時期から浮き彫りとなる。

今、総合格闘技にかぎらず格闘技全般は「競技」と「ショー」を大きな軸として動いている。この両方の価値観を座標軸とすれば、昨今の格闘技界で話題になっている事件や現象の本質を読み解くことができる。その例を二つお目に掛けよう。


■高田VSミルコ戦の評価を分けたもの

まず手始めにPRIDE.17(11月・東京ドーム)でのミルコ・クロコップと高田延彦の試合を例に取ってみよう。試合の中盤から足の怪我を負った高田がマットに自ら腰を下ろし、寝技への引き込みを狙った場面が大いに物議を醸した。

この問題を多くのマスコミは「高田の逃亡」と位置づけ、その積極性の無さを糾弾した。そこには「プロレス」の看板を背負って“格闘家ミルコ”と闘った“プロレスラー高田延彦”への責任追及という、時代遅れな問題意識が透けて見える。

はっきり言って、これは97・98年のヒクソン vs. 高田に対するヒステリックな報道の焼き直しに過ぎない。逆に言えばプロレスマスコミは“ミルコに敵わなかった高田”を糾弾することで、プロレスファンの中の帰属意識を大いに煽ろうとしたわけだ。(裏を返せば97・98年当時、格闘技はまだプロレスのサブジャンルでしかなかったということに他ならない)。

こうしてプロレス最強神話を十年一日のように唱え続けるプロレスマスコミの体質は端から問題外だとしても、それ以上にナンセンスに映ったのは、“あえてプロレス界の常識に異を唱える”という浅はかな分析意識でしか「高田vsミルコ戦」を語り得なかった雑誌「格闘技通信」の姿勢だ。

前回の繰り返しになるが、「プロレスではないもの=格闘技」などという時代遅れな姿勢で記事を書き続けていても、そこからは何も生まれない。

格通は、高田の戦いぶりを「競技」に則したものとして考えれば勝利至上主義の“格闘技的世界観”にぴったりである、という論陣で擁護している。しかしこの記事には裏がある。この当時、格通は一連のPRIDEでの高田の試合をフェイク扱いしたために、取材拒否を食らっており、人気選手に成長した桜庭の写真も掲載できないと言う状況にあったのだ。そこで和解のバーター材料として「高田vsミルコ戦」を“格闘技として素晴らしい”と称揚する事によって、高田道場に媚を売ったのである。要するにこれは格通の一方的な戦略記事であって、決して確固たるイズムによって組み上げられた報道ではないのだ。

さらに格通の記事にはもう一つの欺瞞が潜んでいることを見逃してはならない。

そもそもPRIDEという総合格闘技プロモーションの要請でリングインした段階で、高田もミルコも、ひとしなみに「格闘家」なのである。確かに高田は「プロレスラー」の看板を上げており、対するミルコもいまだにクロアチアの特殊部隊に属し指導教官として働いているという。両者がこのリングから降りた時の職業はそれぞれに異なる。しかし一旦契約を結び、プロファイターとしてリングに上がった以上、二人の肩書きはあくまで「プロレスラー」でもなければ「クロアチア特殊部隊指導官」でもなく、平等に「格闘家」でなければならない。それが大前提のはずである。

だが長年、「プロレス/格闘技」の対抗軸で商売を続けてきた格闘技通信の姿勢では、素直に高田の戦いを評価できない。これまで「プロレスラー」高田の試合を小さく扱うことで、雑誌のストイシズムを強調してきた。しかし今回は逆に高田の「プロレスラー」という立場を際立たせることでストイシズムを強調している。

格通が高田道場の譲歩を引き出すために打った策は、逆に己の欺瞞を露呈してしまったのだ。結局格通は高田道場側の拒絶反応を増幅させただけではないかというのは考え過ぎだろうか? 過去いろんな新聞・雑誌に高田に対する批判的な記事が出たが、高田道場はこれらの媒体に対して取材拒否していない。格通への取材拒否は格通の屈折した態度に対する現場からの拒絶反応であり、極めて全うな対応と言えるだろう。

マスコミ論はこれぐらいにして高田とミルコの試合そのものを読み解く本題に戻ろう。

では高田が試合中に取った“寝待ち”戦術の是非と、それに対する6万のファンが放ったブーイングの意味を切り取るにはどうすればいいのだろう?

格通・ゴング格闘技等の格闘技プロパーの媒体は「負けないこと/勝ちの確率を高めること」にフォーカスした高田の戦術を決して否定すべきではないという立場を取った。僕もそれに異論はない。だがこれだけでは6万の観衆の発したブーイングの意味を解釈できない。

そこでこの解離を矛盾なく説明できるのが、先程提示した「競技/ショー(イベント)」の座標軸である。

仮にこの試合が東京ドームでなく隣の後楽園ホールで、修斗のように「競技」としての価値観を前面に押しだした団体の興行で展開されたものであったなら、ブーイングの性質は全く別のものだったに違いない。高田の引き込み技術の未熟さに対してはブーイングが飛ぶかもしれないが、今のような形でこの論議が激烈なものにはならなかっただろう。

要するに高田の態度は「競技者」の姿勢としては○だが、6万人の観客を集めた「ショー(イベント)」で戦うプロファイターとしては物足りなかったと言うことになる。

それはドームで行なわれる試合の特殊性を示している。

ドームという一種の祝祭空間では、観客は祭儀としての試合を求める。いわばスクェアな“スポーツ競技”を越え、心の奥底の感情を喚起してくれるような試合を期待するのだ。それこそが「ショー(イベント)」としての側面を備えるに至った格闘技の新しい切り口であり、選手達に求められる“プロ意識”というテーマに結びついていくわけだ。それは高田がプロレスラーであろうと無かろうと関係ない問題なのである。“負けるリスクをも省みずアグレッシブな試合を見せる”というのが六万の観客の望んだ展開であり、その舞台に上がりながら「競技」的価値観にこだわって手を出せなかった点においては、高田だけでなくミルコも同罪なのである。

PRIDEというのはあくまで世界トップクラスの格闘技アスリートの対戦を売り物にしたイベントであり、決してPRIDEルールを価値観の頂点に置いて争っているものではない。チャンピオンベルトは存在するにしても、それは選手間の対抗意識を喚起する装置にすぎない。実際コミッションの存在しない場において「競技」的な舞台装置はむしろ不要とすら言える。むしろPRIDEの醍醐味は各々の「競技」で頂点に立った強豪を集め、本来なら実現しえなかった対立構造を演出するスペクタクル性にこそあるのだ。

その舞台装置や観客の嗜好までを飲み込んだ上で、なおかつリアルファイトの範疇で好勝負を提供していかなければならないところ
に「ショー(イベント)」という価値観に身を置いた選手の苦悩があるといえるだろう。

しかし同じ東京ドームを舞台にした試合であっても、12月8日のK-1ワールドグランプリ決勝戦になると、一気に「競技」の座標軸が重要になる。
                          

※BoutReview EXpress [Weekly] Vol. 008 (Sat, 22 Dec. 2001) より

投稿者 井田英登 at 01:00


12/18  「極」至上主義の崩壊。あるいは総合格闘技世界標準への最後の扉 / [contact sports:格闘と葛藤]
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SHOOTO TO THE TOP - THE FINAL ACT -
2001年12月16日(日)千葉/東京ベイNKホール
修斗ウェルター級王座決定戦:五味隆典 vs. 佐藤ルミナ
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「ルミナさん、俺のケンカを買ってください!」

10月8日「コンテンダーズ6」で宇野薫を破った五味隆典のマイクアピールは、修斗という競技がこれまで作り上げてきた世界観をたたきつぶす革命の始動宣言でもあった。しかし、修斗の頂点に対する挑戦を彼が口にしたのは、実はこのときが初めてのことではない。今を先立つこと一年前の10月、五味はそれまで所属していたK'z FACTORYを離れ、木口道場へ移籍している。

その直後行なわれたゴング格闘技誌のインタビュウで「もう、(ルミナを)上だとは思っていない。二人(宇野とルミナ)で何度もやるんだったら競技にならない」と事実上の王座獲り宣言を口にしている。だが、その直後の11月12日の後楽園大会でライアン・ボウと対戦した五味は、右目に眼底骨折を負い修斗公式戦から一年近く遠ざかることになる。

宇野の修斗離脱や、今年8月に決まっていた三島★ド根性ノ助との王座決定戦が三島の怪我で流れるという突発事態も手伝って、五味がタイトル戦のリングにたどり着けるまでに、結局一年の月日が流れていた。

現在修斗のリングで繰り広げられている試合スタイルの典型は、95年、中井祐樹がバーリ・トゥード・ジャパンで繰り広げた死闘を起点に始まったと言っていいだろう。バーリ・トゥード(VT)という壮絶な「殺し合い」の世界の中で、あくまで極めにこだわり、その技術によってジェラルド・ゴルドーやヒクソン・グレイシーといった当時世界のトップクラスの選手達と闘い抜いた中井は、それまで修斗創始・佐山聡が提唱した「打・投・極・理論」でシミュレーションされていただけの修斗に、現実的な「闘争」の息吹を呼んだ。

その後、それまでのジェネラルルールを棄て、VTスタイルに適合した現ルールにシフトした修斗が、柔術的なポジショニングをきっちりと取り込み、ほぼ世界標準といえるレベルのリングに発展していったのは周知のとおりである。

だが中井は結局、ゴルドーによって負わされた目の怪我によって、志半ばにして修斗のリングを去らざるを得なくなる。その遺志を継ぐことになったのは、同じウェルター級の新鋭だったルミナでる。あくまで極めにこだわり、「打投極」のスタイルの進化形を新しい修斗の中で実現しようとするその存在は、他の選手がポジショニングと押さえ込みに走る中、ある種異端だったと言えよう。しかし彼なりのプロ意識に支えられたアクロバティックなスタイルは、他のどんなシューターよりもファンの支持を集めた。チャンピオンとしてベルトを巻いたことのない選手が、競技の顔となり、エースとして君臨した例はほとんどないと思う。

確かにルミナという選手はルックスも爽やかで存在感もある。ここ一番の勝負どころで神懸かり的な秒殺劇を演じて、修斗という競技を、格闘技界のメインストリームに押し上げてきたのも事実だ。

しかしここ数年間、僕は修斗、そして特にルミナの試合を見るたびに、奇妙な違和感を感じていたことをここに告白したいと思う。僕が修斗の試合を取材し始めたのは97年の正月、ルミナがヒカルド・ボテーリョを破ったあの劇的な試合からだ。あの頃からルミナは極めにこだわる独自のスタイルを押し通してきた。そして強力な右ローや一秒でも早く相手からタップを奪おうとする奇襲で一世を風靡した。

だが97年秋以降、海外に飛びUFC取材を積み重ねるようになっていった僕には、このルミナのスタイルは逆に奇異に映るようになってきた。その当時UFCで活躍していたのはマーク・コールマンやドン・フライといったアマチュアレスリング出身の選手である。彼らのスタイルは単純明快だ。得意のタックルでテイクダウンを奪うと、柔術家のようなパスガードなど一切考えず、相手をキッチリとした押さえ込みでねじ伏せ、インサイドガードから大砲のようなパンチを降り下ろして勝利を奪う。シンプルかつ野蛮だが、NHB(総合格闘技)の戦いの中できわめて有効なものだった。そこには柔術のポジショニングやサンボの関節技のような芸術性など皆無だ。ただひたすらアメリカナイズされた機能最優先主義の戦いに、僕は“格闘技としてのリアリティ”を感じたものだった。

それに比べると日本の修斗の戦いは僕の目には“優雅”なものに映った。押さえ込みの理論こそ普及して来たものの、その戦いの終着点は「極め」にこそあるといった哲学が浸透しており、グラウンドパンチはあくまで極めに至るための一アイテムでしかない。パスガードの瞬間には客席から拍手が起こり、極めに至るプロセスとして末端のファンまで認知されている。僕がアメリカで見ることの多かったドメスティックで野蛮な世界とあまりにもかけ離れたジャパニーズ・ウェイの戦い。

そしてその頂点に立っていた男こそが、佐藤ルミナだった。ルミナの技術の中には柔術的要素はほとんど無い。だが柔術を身につけ、ポジショニングを駆使するようになった若きシューター達とは一つのラインで結ばれている。それは試合が「極め」という芸術的なフィニッシュに向け組み立てられ、それを遂行するためにそれぞれの技術が集約されているということだ。そう、一度はVTへのアクセスで葬り去られたはずの「佐山理論」が、ルミナという象徴的存在を価値観の頂点に置くことによって、ダークモチーフとして修斗の世界観の中にしっかりと生き残っていたのである。

二年前、宇野に敗れたルミナが大阪で復帰戦を行なった際のレポートに、僕はこのような主旨の内容を書いた。“ルミナの秒殺勝負は「居合い抜き」の様なものであり、一の太刀で相手を倒せなかった時に、それ以降の長期戦を凌ぐ武器が無い。格下の外人相手にアクロバティックな試合をするより、五味や桑原らとじっくり闘うことこそ、宇野との再戦の切符を得る最大の手段だ”

それはまさに「佐山理論の実践者」たる今の地位を棄てて、よりドメスティックな戦いのなかに身を投じるべきではないかという提言のつもりだった。

その後もルミナは、そうした己のスタイルを棄てることの無いまま宇野との再戦に挑み、結局は敗れた。だがそのショッキングなノックアウト劇はインパクトの大きさゆえ、“出合い頭の一発”という言い訳の余地をルミナに与えてしまった。かくして彼は二度の宇野戦の敗北を経てもなお、自らのイズムを軌道修正するチャンスを持つことができなかったのである。

そんなルミナが所属するK'z FACTORYは、まさに初代シューターである草柳を筆頭に、大石、植松ら代表選手が脈々とこの「極イズム」を受け継いだジムと言える。ある意味ジャパニーズ・ウェイをひた走る近代修斗の総本山といってもいい場所だ。

そのK'zを離脱した五味が新たな自己研さんの場として選んだのがアマチュアレスリングのジムである木口道場であったのは非常に興味深い。これまで多くの格闘技メディアはこの五味の選択に対して、同じ階級のトップに立つ先輩・ルミナとの対決を想定した離脱と位置づけ、対立関係を過剰に演出してきた。

しかし後述するつもりだが、五味の木口移籍をそうしたヒューマンファクター型のドラマで読み解くのでは、どうも齟齬を来たす面がある。むしろ五味の移籍の最大の理由は、自分の信ずべきファイトスタイルとK'zの推進するジャパニーズウェイが異なると感じたためではないだろうか? ----五味はレスリングを基礎とする世界標準のNHBスタイルを我が物とするために木口に移ったと考えるほうが、はるかにすっきりした理由と僕には思えるのだ。

今回の五味×ルミナに関しては、編集部内でも試合展開の予測について議論が別れた。10月のコンテンダーズ大会での五味×宇野を見て、ルミナ戦でも五味が積極的に一本を狙いに行くと予想した井原記者は、ルミナが凌ぎきる展開を予想した。

だが僕は正反対に、五味がアマレス技術を軸にグラウンドでのパンチを降らせて判定勝ちするであろうと予想した。これも五味というファイターを読み解くうえで大きな鍵となると思うのだが、五味というのは“場の論理”にきわめて敏感に反応するファイターと言う気がするのだ。

レスリングにはレスリングという競技が求める勝利への方程式というものが存在し、コンバットレスリングはコンバットレスリングのルールが方向づける最適な試合の展開と言うものがあるはずだ。僕が見てきた範囲で五味という選手の戦い方を分析すれば、五味は常にそういう“場の論理”を己の感性で読み取り、きちんと試合を組み立てるはずである。逆に言えばコンテンダーズという打撃無しの場に置けるファイトは、あくまでそのルールが希求する「極め」を重視したものであって、こと修斗での五味の戦い方とはまったく違うはずだ。コンテンダーズの試合内容は全く参考にならないとまで断定してもいい。五味は間違いなくルミナの寝技に付き合わない。逆にルミナに勝機があるとしたら、早い段階でのサブミッションしかないし、ルミナもあらゆる手段を使ってそれを狙ってくるはずだ、と。

事実、僕の予想通りと言っていい試合展開となった。
1Rこそ腕十字からヒールホールドへとつなぎ、逃れようとする五味にコブラのように絡み付いたルミナだが、実際この試合でルミナの見せ場となるシーンはこの数分間だけに終わってしまった。続く2R以降、スタンドでは得意のローに合わせたカウンターパンチをことごとく浴び、グラウンドでも延々と五味に押さえ込まれる展開が続く。

現在のルミナがスタンドの練習をどういうスタイルでやっているかは知らないが、僕の見たかぎりでは、明らかにパンチのスキルを持った人間とのスパーリングが足りないのではないかという印象を受けた。確かに彼のローの強力さは今でもこの階級のトップクラスのものだろう。しかし、それ以外の技術が磨けていないことは、コンビネーションの技術の乏しさ、カウンターに対するガードの低さ、相手の攻撃に対する反応の悪さを見ても明らかだ。

実際2R開始早々には左のストレートからの連打を浴びて棒立ちになってしまうシーンも見られた。五味をグラウンドに引き込んで凌いだものの、一瞬腰が砕けたのでは思わせるような一方的な場面であった。逆に言えば、今のNHBシーンで最も重要な技であるパンチに五味が焦点を絞って技術を磨いてきたことが、キックを多用するルミナとの戦いで有効に作用した証左でもある。

そしてこの試合を決したと言ってもいいのは、なんと言っても五味のインサイドガードからの左右のロングフックであろう。テイクダウンすると五味は一切パスガードを考えず、ひたすら距離を保ち、顔面にパンチを振り下ろすスタイルを貫いた。このときに五味が見せたロングフックの的確さは、まさにアマレスラー達がオクタゴンの中で展開してきた、アメリカンスタイルのNHBファイト。このシチュエーションをはっきりイメージしシミュレーションしてきた証拠である。

一方ルミナの方はクロスガードをがっちり保つばかりで、なんの打開策も見いだせない。オープンガードにして相手をコントロールすることもなければ、スイープも狙えない。長年柔術的技術に背を向けてきたツケが回ってきたのだ。

そしてこうした展開を繰り返す中で、ルミナは己をカリスマたらしめてきた要素をすべてはぎ取られてしまったといっていいだろう。華麗なサブミッションも、クールな表情も消えた。ただグラウンドに寝かされパンチを浴び続けるルミナの表情は、自らのそうした姿が信じられないとでもいう様子である。パンチで赤く隈取られた目の周囲に、まるで内心の焦燥が浮かび出たかのようだ。

ルミナが最初にその表情を見せたのは、コーナーに詰められ首を取られた時だった。脇の差し合いになるかと思いきや、五味は両手でルミナの頭を首相撲のように抱え込み、自らの頭をグリグリと押し付けてくる。通常なら差し合いの攻防になるであろうこのシーンで、五味は徹底的にこの「嫌がらせ」を繰り返した。ルミナはこの時、こんな不安定な体勢を引っ繰り返せず、力の差をまざまざと見せ付けてくる五味に対しリアルな恐怖を感じたのではないだろうか。グラウンドでも五味の「魂潰し」のグリグリ攻撃は徹底していた。隙あらば額や顎でルミナの顔面を蹂躙していくこの攻撃からは、これまで紡ぎ挙げられてきた修斗の世界観をも含め、佐藤ルミナという存在自体を否定しているのではないかと思わせる圧迫感が感じられた。

まさしくこれこそ僕が見た、アメリカのオクタゴンの中で展開されてきた戦いである。修斗が積み上げてきた「極め」至上主義は通用しない。相手の肉体にとどまらず精神まで叩き潰さんばかりの戦い。これこそが究極の「戦い」=アルティメットファイティングであり、リングの上での真剣勝負の最終局面であると言ってもいいだろう。すべての装飾、すべての美意識を排除した、勝つという目的だけに徹底した、機能主義の世界である。

頭上から降り注がれるロングフックを封じようと、ルミナは必死に五味の両腕をかんぬきに固める。しかし五味はその体勢のまま、ルミナの上半身を抱え挙げ、容赦なく頭からマットに叩き付けていく。その妥協の無さは、見るものに恐怖感すら与えるほどだった。

これはもう凌ぎあいでもなければ技比べでもない。「壊しあい」としかいいようのない殺伐とした世界だ。

確かにここ数年日本国内では、以前なら考えられないほど総合格闘技がポピュラリティを得てきた。その立て役者は間違いなくルミナであり、桜庭和志であった。華麗なサブミッションとスピーディーな攻防。スポーツとして洗練され、一般の興味を引くに足る世界を彼らは築いてきた。


しかしひょっとすると、その華麗さの影で僕らは何か勘違いをしていたのかもしれない。人間が拳で殴りあい、死力を尽くして一方の人間をたたきつぶそうとする行動には、もっと強力な情念やエネルギーが必要なのだ。ケンカというものを一度でも生身で経験したことのある方なら、この感覚はわかっていただけるかもしれない。暴力とは相手を力で支配し、対立しようとする気持ち自体を根本から破壊するために行使される。どんな手段を尽くしても、相手の持つ力に対して抵抗などはできない。そう思い知らされた瞬間、人間はその力に屈する。いわゆる「心が折れる」という状態だ。

この日五味がルミナに加えた一連の攻撃には、まさにそうした格闘技の本質で、暴力に直結した何かを想起させる生々しさ、怖さがあった。これまで格闘技マスコミは五味とルミナの戦いを、K'z FACTORY出身の先輩・後輩対決という構図で必死に切り取ろうとしてきた。

恐らくこの戦いをレポートする各誌の記事も、きっとこうした“因縁物語”を引用し、まるで五味がルミナを憎んでいたかのよう
に書かれることだろう。実際に二人の間にはそうした感情の軋轢があったかもしれないし、なかったのかもしれない。しかしそんなことはどうでもいいのだ。はっきり言えることは、五味のこの日の冷徹な攻撃は、相手がルミナだったからなされた物では決してない。五味の格闘技観自体が、徹底して人間存在ぎりぎりの部分までムキ出しにするようなこうした戦いを望んでいたのだと思う。言ってはなんだが、こんな“怖い”戦いを実現しようとすれば、そんなちっぽけな個人的感情など入り込む余地は無い。仮にそんな気持ちで闘っていたら、逆にアドレナリンの過剰放出で、あっという間に人間は息が上がってしまうという事実をその傍証に挙げておこう。

五味の戦いは明らかに感情に流されていない。徹底的にこのルールでの戦いを想定した練習を積み重ね、それを実現するために何百時間という時間を費やした者にだけ醸し出せる、静謐(せいひつ)さを彼は持っていた。

それを支えているのは感情ではない。

戦いというものに抱いた“哲学”がそうさせているのだ。僕はこの戦いを見るにあたって、五味の試合後のマイクアピールを除き、五味の言葉もルミナの言葉も一切聞いていない。ここに書いていることはすべて、リングの上の戦いだけから解析したものだ。だが断言してもいいと思う。これは感情の戦いなどではない。格闘技というものに抱いた、二つの異なる「世界観のぶつかり合い」だったのだ、と。

中井祐樹が基礎を作り、佐藤ルミナが整地してきた修斗の王道を、ダンプカーと化した新世代の五味が轟音を蹴立てて押し渡るとでも言うべきか。ただ、今その礎となって容赦なく踏み付けられているのは、ほかならぬ佐藤ルミナであると
いうのがなんとも皮肉だ。

約一年ぶりの修斗の試合に、五味は恐るべき存在に成長して戻ってきた。その動きに一切の無駄はない。3Rも半ばを越えた段階で、もう僕はこの試合を見る必要は無いとすら感じるほどだった。徹底した「叩き潰し」。格闘技の恐怖側面をこれでもか、これでもか、と見せ付けられた結果、僕らの目の前でルミナが壊されていったのである。もう10ラウンド以上戦ったかのようにクシャクシャにゆがんだ表情を見せたルミナと、まだ10ラウンドぐらい闘えるぜと言わんばかりにクールな表情を浮かべた五味。これは27歳と23歳という両者の年齢差以上の物を感じさせる場面だ。そこには、偶像ルミナの破壊、修斗リングを支配してきた「極の呪縛」の崩壊といった構図がくっきりと現れていた。

五味がこの日成し遂げたのは、そうしたすべての偶像の破壊である。よりリアルに、そしてドメスティックに。五味の革命がついに成し遂げられた瞬間だった。

ベルトを手にした五味はリング上で「このベルトを狙ってくる奴はみんな叩き潰しますから」と叫んだ。その言葉に嘘はあるまい。五味は自らのスタイルで、「極」至上主義に陥っていた修斗の価値観を塗り替えていくはずだ。

UFC参戦を強く望んでいると伝えられる五味にとって、修斗の王座を背負ったことが、その目標に対する近道になるのか、それとも遠回りになるのかは現段階では判断できない。だが一つだけ確実に言える事がある。エンセン井上という例外をのぞけば、五味隆典は、修斗が生んだ初のアメリカンウェイのNHBチャンピオンなのである。彼が王者として君臨することで、修斗は総合格闘技の世界標準に向け最後の扉を開いたことになる。そしてその先に続く道は、遠かれ近かれいずれ五味をオクタゴンへと導くはずである。

▼この大会のレポート&写真はこちらに掲載しています。
http://www.boutreview.com/news/data/grappling/1008512930.html


※BoutReview EXpress [Special Issue] (Tue, 18 Dec. 2001)より

投稿者 井田英登 at 01:00


12/15  「【格闘技】と言う名の曖昧な領域」(1) / [contact sports:格闘と葛藤]
最近、雑誌「格闘技通信」(ベースボール・マガジン社)が二号連続で「プロレスと格闘競技」の境界線を明確にしようとする巻頭特集を掲載した。

朝岡編集長の“NO FAKE”路線に沿ったキャンペーンの一環だろう。前編にあたる291号では11月のPRIDE東京ドーム大会での高田延彦 vs. ミルコ・クロコップをテーマに上げ、兄弟誌・週刊プロレスのレポートを、プロレスと競技である格闘技をごっちゃに
したイメージ報道と位置づけ批判した。また後編である292号では、修斗を経てパンクラスに参戦、「プロレスラー」を自称する純血パンクラシストを撃破し続けるGRABAKAの存在を軸に、パンクラスは“プロレスですか?格闘技ですか?”という問題提起を行なった。ほかにも291号の記事に反論した週刊プロレス・佐藤編集長と格通・朝岡編集長の企業内対談などが掲載されている。

まず率直な感想を言わせてもらえば、格闘技報道の最前線を20年近く走り続けてきた業界のリード雑誌にして、いまだにこういう視点で特集を組まねばならない段階なのかと思い、がっかりした。

興業をレポートする形で雑誌を成立させている業界だけに、こうしたテーマを表面化させて特集を組んでいくのは確かに冒険かもしれない。フィックスドファイト(結果の決まったデキ試合)と競技の線引きなど、第三者にはそう簡単にできるものではない。だがそれでもなお「プロレスを読み解く」という行為を試みるなら、どうしてもそのダークゾーンに踏み込み、事実関係の立証を行なわなければならない。関係者の証言や八百長行為に関わる金銭授受などの事実を立証できるならともかく、リング上のアクションのみを捉えて印象評論で記事を構成しても、それは単なる“感想文”であり、もっと言うなら報道手法において、
“書く側の八百長行為”にしかならない。

あえてこういうアプローチを行なっているライターとして田中正志らがいるが、彼にしてもベースはアメリカのプロレスビジネス周辺であって、日本国内の状況に真正面から踏み込むことはできていない。最近、元・新日本プロレスのレフェリー、ミスター高橋が書いた「流血の魔術 最強の演技 すべてのプロレスはショーである」(講談社)が大きな反響を呼んでいるのが唯一の例外だろうが、これにしても半ばインサイダーの立場から事実関係を検証したもので、ライターやメディア発のものではない。

もし仮に、田中角栄の汚職を暴いた立花隆のような気鋭のジャーナリストが格闘技業界にいて、日々の取材でなんらかの不正を発見したとしても、彼がこの業界にいるかぎりそれを記事にすることは困難だろう。

なぜなら、格闘技興業の多くは事実上プロモーターが全面的に仕切っている私的イベントでしかなく、コミッションが存在して運営を統括し、不正行為の監視に目を光らせているほうが稀で、完全な報道の自由が保証されていないためである。したがって、プロモーターが取材拒否すればその記者や媒体は会場に入れなくなり、その後の取材は頓挫する。こうして興業を盾に取られている形の業界情報誌には、一般新聞や週刊誌のような報道機関としての役割を期待できない構造になっているのである。

格通の特集に話を戻すと、「プロレスは競技ではない」と主張しながら、実際は必要十分な定義をできていないこの特集は、正直“ぬるい”と言わざるをえない。詳細な内容に興味のある方は実際にこの雑誌を手に取ってもらえばいいと思うが、週プロ編集長との身内対談の内容を見れば彼らのスタンスは明白だ。結局プロレスの存在を“物差し”にしなければ“格闘技”という己達の関わっているエリアを明確化できないのだ。対立概念に「プロレス」の存在を挙げたことからは、“格闘技雑誌”という従来曖昧なエリアの存在を自己正当化する思惑以上の、本質的な意義が感じられない。

たしかに1980年代、格闘技雑誌が創刊され、プロ格闘技が勃興しつつある時代状況の中であったなら、その物差しもプロレスから派生しつつあるサブジャンルの現状を伝えるのに有効だったことは事実だ。

当時プロレスから派生する形で生まれたUWFのムーブメントによって、日本の格闘技ビジネスは足場を固めてきた。つまり本格的な格闘技術の攻防を見たいと望む“プロレスファン”の目を、既にある格闘技という地味な領域に呼び込むことで成立してきたビジネスなのである。格闘技マスコミも常にプロレスを対立軸の向こうに置きながら、プロレスファンにむけてのメッセージを紡いできたのである。

しかし1990年代以降、格闘技ジャンルの在り方は明らかに変わった。地上波テレビ局主導のK-1やPRIDEなど大型プロモーションの出現や、“Xスポーツ”色を前面に押し出しストリートカルチャーとの接近を計った修斗の躍進によって、既にプロ格闘技はプロレスのサブジャンルであった時代を、いわば「通りすぎて」しまったのである。

もはやプロレスを対立概念に使わなくても、ボクシングや相撲と同じく“格闘技”というドアがストレートにファンに向けて開かれている時代なのだ。その意味で「格闘技通信」の特集の切り口は時代遅れの感がぬぐえない。裏読みをすれば、プロレス雑誌を並行して発刊しているベースボール・マガジン社の「コップの中の嵐」を、格闘技界全体のパラダイムに援用しようという強引さを感じてしまう。

そんな新しい時代であるにも関らず「格闘技マスコミ」と呼ばれている媒体は、“プロレス村・左派(要するに勝敗とリアルファイト性にこだわるタイプ)”をターゲットにした媒体から脱皮できていない。

K-1やPRIDEや修斗に興味を持つきっかけが、フジTVのスポーツニュースや、格闘家がモデルを務めるファッション誌にあるような、非“プロレス経由”のファンが、素直に読める専門誌がこの業界に存在するだろうか? 

かつてF-1ブームのころ、雨後のタケノコのようにF-1専門誌が出現した状況とは明らかに違う。格闘技雑誌は、一度はプロレスの
門をくぐりながらも途中でリアルファイトに目覚めた“選ばれしファン”の欲求を満たすことに追われ、プロレスを知らないままK-1等にハマった層にほとんど訴求力を持たない媒体となってはいないだろうか。

格闘技エリアの中でも最も左派であると言える専門誌にしたところで、「この世界観こそが格闘技の本質だ」という明確な主張を示せていない。

ただ、プロレスを「非格闘技」として埒外に置く消極的な主張のみをもって、自己のアイデンティティとしている。この現状こそが、格闘技マスコミを貧しくしている元凶だと断定して構わないだろう。


※BoutReview EXpress [Weekly] Vol. 007 (Sat, 15 Dec. 2001) より
                           
投稿者 井田英登 at 01:00