Hideto Ida's Blog 〜 時に放浪、日々朦朧 〜

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12/18  「極」至上主義の崩壊。あるいは総合格闘技世界標準への最後の扉 / [contact sports:格闘と葛藤]
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SHOOTO TO THE TOP - THE FINAL ACT -
2001年12月16日(日)千葉/東京ベイNKホール
修斗ウェルター級王座決定戦:五味隆典 vs. 佐藤ルミナ
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「ルミナさん、俺のケンカを買ってください!」

10月8日「コンテンダーズ6」で宇野薫を破った五味隆典のマイクアピールは、修斗という競技がこれまで作り上げてきた世界観をたたきつぶす革命の始動宣言でもあった。しかし、修斗の頂点に対する挑戦を彼が口にしたのは、実はこのときが初めてのことではない。今を先立つこと一年前の10月、五味はそれまで所属していたK'z FACTORYを離れ、木口道場へ移籍している。

その直後行なわれたゴング格闘技誌のインタビュウで「もう、(ルミナを)上だとは思っていない。二人(宇野とルミナ)で何度もやるんだったら競技にならない」と事実上の王座獲り宣言を口にしている。だが、その直後の11月12日の後楽園大会でライアン・ボウと対戦した五味は、右目に眼底骨折を負い修斗公式戦から一年近く遠ざかることになる。

宇野の修斗離脱や、今年8月に決まっていた三島★ド根性ノ助との王座決定戦が三島の怪我で流れるという突発事態も手伝って、五味がタイトル戦のリングにたどり着けるまでに、結局一年の月日が流れていた。

現在修斗のリングで繰り広げられている試合スタイルの典型は、95年、中井祐樹がバーリ・トゥード・ジャパンで繰り広げた死闘を起点に始まったと言っていいだろう。バーリ・トゥード(VT)という壮絶な「殺し合い」の世界の中で、あくまで極めにこだわり、その技術によってジェラルド・ゴルドーやヒクソン・グレイシーといった当時世界のトップクラスの選手達と闘い抜いた中井は、それまで修斗創始・佐山聡が提唱した「打・投・極・理論」でシミュレーションされていただけの修斗に、現実的な「闘争」の息吹を呼んだ。

その後、それまでのジェネラルルールを棄て、VTスタイルに適合した現ルールにシフトした修斗が、柔術的なポジショニングをきっちりと取り込み、ほぼ世界標準といえるレベルのリングに発展していったのは周知のとおりである。

だが中井は結局、ゴルドーによって負わされた目の怪我によって、志半ばにして修斗のリングを去らざるを得なくなる。その遺志を継ぐことになったのは、同じウェルター級の新鋭だったルミナでる。あくまで極めにこだわり、「打投極」のスタイルの進化形を新しい修斗の中で実現しようとするその存在は、他の選手がポジショニングと押さえ込みに走る中、ある種異端だったと言えよう。しかし彼なりのプロ意識に支えられたアクロバティックなスタイルは、他のどんなシューターよりもファンの支持を集めた。チャンピオンとしてベルトを巻いたことのない選手が、競技の顔となり、エースとして君臨した例はほとんどないと思う。

確かにルミナという選手はルックスも爽やかで存在感もある。ここ一番の勝負どころで神懸かり的な秒殺劇を演じて、修斗という競技を、格闘技界のメインストリームに押し上げてきたのも事実だ。

しかしここ数年間、僕は修斗、そして特にルミナの試合を見るたびに、奇妙な違和感を感じていたことをここに告白したいと思う。僕が修斗の試合を取材し始めたのは97年の正月、ルミナがヒカルド・ボテーリョを破ったあの劇的な試合からだ。あの頃からルミナは極めにこだわる独自のスタイルを押し通してきた。そして強力な右ローや一秒でも早く相手からタップを奪おうとする奇襲で一世を風靡した。

だが97年秋以降、海外に飛びUFC取材を積み重ねるようになっていった僕には、このルミナのスタイルは逆に奇異に映るようになってきた。その当時UFCで活躍していたのはマーク・コールマンやドン・フライといったアマチュアレスリング出身の選手である。彼らのスタイルは単純明快だ。得意のタックルでテイクダウンを奪うと、柔術家のようなパスガードなど一切考えず、相手をキッチリとした押さえ込みでねじ伏せ、インサイドガードから大砲のようなパンチを降り下ろして勝利を奪う。シンプルかつ野蛮だが、NHB(総合格闘技)の戦いの中できわめて有効なものだった。そこには柔術のポジショニングやサンボの関節技のような芸術性など皆無だ。ただひたすらアメリカナイズされた機能最優先主義の戦いに、僕は“格闘技としてのリアリティ”を感じたものだった。

それに比べると日本の修斗の戦いは僕の目には“優雅”なものに映った。押さえ込みの理論こそ普及して来たものの、その戦いの終着点は「極め」にこそあるといった哲学が浸透しており、グラウンドパンチはあくまで極めに至るための一アイテムでしかない。パスガードの瞬間には客席から拍手が起こり、極めに至るプロセスとして末端のファンまで認知されている。僕がアメリカで見ることの多かったドメスティックで野蛮な世界とあまりにもかけ離れたジャパニーズ・ウェイの戦い。

そしてその頂点に立っていた男こそが、佐藤ルミナだった。ルミナの技術の中には柔術的要素はほとんど無い。だが柔術を身につけ、ポジショニングを駆使するようになった若きシューター達とは一つのラインで結ばれている。それは試合が「極め」という芸術的なフィニッシュに向け組み立てられ、それを遂行するためにそれぞれの技術が集約されているということだ。そう、一度はVTへのアクセスで葬り去られたはずの「佐山理論」が、ルミナという象徴的存在を価値観の頂点に置くことによって、ダークモチーフとして修斗の世界観の中にしっかりと生き残っていたのである。

二年前、宇野に敗れたルミナが大阪で復帰戦を行なった際のレポートに、僕はこのような主旨の内容を書いた。“ルミナの秒殺勝負は「居合い抜き」の様なものであり、一の太刀で相手を倒せなかった時に、それ以降の長期戦を凌ぐ武器が無い。格下の外人相手にアクロバティックな試合をするより、五味や桑原らとじっくり闘うことこそ、宇野との再戦の切符を得る最大の手段だ”

それはまさに「佐山理論の実践者」たる今の地位を棄てて、よりドメスティックな戦いのなかに身を投じるべきではないかという提言のつもりだった。

その後もルミナは、そうした己のスタイルを棄てることの無いまま宇野との再戦に挑み、結局は敗れた。だがそのショッキングなノックアウト劇はインパクトの大きさゆえ、“出合い頭の一発”という言い訳の余地をルミナに与えてしまった。かくして彼は二度の宇野戦の敗北を経てもなお、自らのイズムを軌道修正するチャンスを持つことができなかったのである。

そんなルミナが所属するK'z FACTORYは、まさに初代シューターである草柳を筆頭に、大石、植松ら代表選手が脈々とこの「極イズム」を受け継いだジムと言える。ある意味ジャパニーズ・ウェイをひた走る近代修斗の総本山といってもいい場所だ。

そのK'zを離脱した五味が新たな自己研さんの場として選んだのがアマチュアレスリングのジムである木口道場であったのは非常に興味深い。これまで多くの格闘技メディアはこの五味の選択に対して、同じ階級のトップに立つ先輩・ルミナとの対決を想定した離脱と位置づけ、対立関係を過剰に演出してきた。

しかし後述するつもりだが、五味の木口移籍をそうしたヒューマンファクター型のドラマで読み解くのでは、どうも齟齬を来たす面がある。むしろ五味の移籍の最大の理由は、自分の信ずべきファイトスタイルとK'zの推進するジャパニーズウェイが異なると感じたためではないだろうか? ----五味はレスリングを基礎とする世界標準のNHBスタイルを我が物とするために木口に移ったと考えるほうが、はるかにすっきりした理由と僕には思えるのだ。

今回の五味×ルミナに関しては、編集部内でも試合展開の予測について議論が別れた。10月のコンテンダーズ大会での五味×宇野を見て、ルミナ戦でも五味が積極的に一本を狙いに行くと予想した井原記者は、ルミナが凌ぎきる展開を予想した。

だが僕は正反対に、五味がアマレス技術を軸にグラウンドでのパンチを降らせて判定勝ちするであろうと予想した。これも五味というファイターを読み解くうえで大きな鍵となると思うのだが、五味というのは“場の論理”にきわめて敏感に反応するファイターと言う気がするのだ。

レスリングにはレスリングという競技が求める勝利への方程式というものが存在し、コンバットレスリングはコンバットレスリングのルールが方向づける最適な試合の展開と言うものがあるはずだ。僕が見てきた範囲で五味という選手の戦い方を分析すれば、五味は常にそういう“場の論理”を己の感性で読み取り、きちんと試合を組み立てるはずである。逆に言えばコンテンダーズという打撃無しの場に置けるファイトは、あくまでそのルールが希求する「極め」を重視したものであって、こと修斗での五味の戦い方とはまったく違うはずだ。コンテンダーズの試合内容は全く参考にならないとまで断定してもいい。五味は間違いなくルミナの寝技に付き合わない。逆にルミナに勝機があるとしたら、早い段階でのサブミッションしかないし、ルミナもあらゆる手段を使ってそれを狙ってくるはずだ、と。

事実、僕の予想通りと言っていい試合展開となった。
1Rこそ腕十字からヒールホールドへとつなぎ、逃れようとする五味にコブラのように絡み付いたルミナだが、実際この試合でルミナの見せ場となるシーンはこの数分間だけに終わってしまった。続く2R以降、スタンドでは得意のローに合わせたカウンターパンチをことごとく浴び、グラウンドでも延々と五味に押さえ込まれる展開が続く。

現在のルミナがスタンドの練習をどういうスタイルでやっているかは知らないが、僕の見たかぎりでは、明らかにパンチのスキルを持った人間とのスパーリングが足りないのではないかという印象を受けた。確かに彼のローの強力さは今でもこの階級のトップクラスのものだろう。しかし、それ以外の技術が磨けていないことは、コンビネーションの技術の乏しさ、カウンターに対するガードの低さ、相手の攻撃に対する反応の悪さを見ても明らかだ。

実際2R開始早々には左のストレートからの連打を浴びて棒立ちになってしまうシーンも見られた。五味をグラウンドに引き込んで凌いだものの、一瞬腰が砕けたのでは思わせるような一方的な場面であった。逆に言えば、今のNHBシーンで最も重要な技であるパンチに五味が焦点を絞って技術を磨いてきたことが、キックを多用するルミナとの戦いで有効に作用した証左でもある。

そしてこの試合を決したと言ってもいいのは、なんと言っても五味のインサイドガードからの左右のロングフックであろう。テイクダウンすると五味は一切パスガードを考えず、ひたすら距離を保ち、顔面にパンチを振り下ろすスタイルを貫いた。このときに五味が見せたロングフックの的確さは、まさにアマレスラー達がオクタゴンの中で展開してきた、アメリカンスタイルのNHBファイト。このシチュエーションをはっきりイメージしシミュレーションしてきた証拠である。

一方ルミナの方はクロスガードをがっちり保つばかりで、なんの打開策も見いだせない。オープンガードにして相手をコントロールすることもなければ、スイープも狙えない。長年柔術的技術に背を向けてきたツケが回ってきたのだ。

そしてこうした展開を繰り返す中で、ルミナは己をカリスマたらしめてきた要素をすべてはぎ取られてしまったといっていいだろう。華麗なサブミッションも、クールな表情も消えた。ただグラウンドに寝かされパンチを浴び続けるルミナの表情は、自らのそうした姿が信じられないとでもいう様子である。パンチで赤く隈取られた目の周囲に、まるで内心の焦燥が浮かび出たかのようだ。

ルミナが最初にその表情を見せたのは、コーナーに詰められ首を取られた時だった。脇の差し合いになるかと思いきや、五味は両手でルミナの頭を首相撲のように抱え込み、自らの頭をグリグリと押し付けてくる。通常なら差し合いの攻防になるであろうこのシーンで、五味は徹底的にこの「嫌がらせ」を繰り返した。ルミナはこの時、こんな不安定な体勢を引っ繰り返せず、力の差をまざまざと見せ付けてくる五味に対しリアルな恐怖を感じたのではないだろうか。グラウンドでも五味の「魂潰し」のグリグリ攻撃は徹底していた。隙あらば額や顎でルミナの顔面を蹂躙していくこの攻撃からは、これまで紡ぎ挙げられてきた修斗の世界観をも含め、佐藤ルミナという存在自体を否定しているのではないかと思わせる圧迫感が感じられた。

まさしくこれこそ僕が見た、アメリカのオクタゴンの中で展開されてきた戦いである。修斗が積み上げてきた「極め」至上主義は通用しない。相手の肉体にとどまらず精神まで叩き潰さんばかりの戦い。これこそが究極の「戦い」=アルティメットファイティングであり、リングの上での真剣勝負の最終局面であると言ってもいいだろう。すべての装飾、すべての美意識を排除した、勝つという目的だけに徹底した、機能主義の世界である。

頭上から降り注がれるロングフックを封じようと、ルミナは必死に五味の両腕をかんぬきに固める。しかし五味はその体勢のまま、ルミナの上半身を抱え挙げ、容赦なく頭からマットに叩き付けていく。その妥協の無さは、見るものに恐怖感すら与えるほどだった。

これはもう凌ぎあいでもなければ技比べでもない。「壊しあい」としかいいようのない殺伐とした世界だ。

確かにここ数年日本国内では、以前なら考えられないほど総合格闘技がポピュラリティを得てきた。その立て役者は間違いなくルミナであり、桜庭和志であった。華麗なサブミッションとスピーディーな攻防。スポーツとして洗練され、一般の興味を引くに足る世界を彼らは築いてきた。


しかしひょっとすると、その華麗さの影で僕らは何か勘違いをしていたのかもしれない。人間が拳で殴りあい、死力を尽くして一方の人間をたたきつぶそうとする行動には、もっと強力な情念やエネルギーが必要なのだ。ケンカというものを一度でも生身で経験したことのある方なら、この感覚はわかっていただけるかもしれない。暴力とは相手を力で支配し、対立しようとする気持ち自体を根本から破壊するために行使される。どんな手段を尽くしても、相手の持つ力に対して抵抗などはできない。そう思い知らされた瞬間、人間はその力に屈する。いわゆる「心が折れる」という状態だ。

この日五味がルミナに加えた一連の攻撃には、まさにそうした格闘技の本質で、暴力に直結した何かを想起させる生々しさ、怖さがあった。これまで格闘技マスコミは五味とルミナの戦いを、K'z FACTORY出身の先輩・後輩対決という構図で必死に切り取ろうとしてきた。

恐らくこの戦いをレポートする各誌の記事も、きっとこうした“因縁物語”を引用し、まるで五味がルミナを憎んでいたかのよう
に書かれることだろう。実際に二人の間にはそうした感情の軋轢があったかもしれないし、なかったのかもしれない。しかしそんなことはどうでもいいのだ。はっきり言えることは、五味のこの日の冷徹な攻撃は、相手がルミナだったからなされた物では決してない。五味の格闘技観自体が、徹底して人間存在ぎりぎりの部分までムキ出しにするようなこうした戦いを望んでいたのだと思う。言ってはなんだが、こんな“怖い”戦いを実現しようとすれば、そんなちっぽけな個人的感情など入り込む余地は無い。仮にそんな気持ちで闘っていたら、逆にアドレナリンの過剰放出で、あっという間に人間は息が上がってしまうという事実をその傍証に挙げておこう。

五味の戦いは明らかに感情に流されていない。徹底的にこのルールでの戦いを想定した練習を積み重ね、それを実現するために何百時間という時間を費やした者にだけ醸し出せる、静謐(せいひつ)さを彼は持っていた。

それを支えているのは感情ではない。

戦いというものに抱いた“哲学”がそうさせているのだ。僕はこの戦いを見るにあたって、五味の試合後のマイクアピールを除き、五味の言葉もルミナの言葉も一切聞いていない。ここに書いていることはすべて、リングの上の戦いだけから解析したものだ。だが断言してもいいと思う。これは感情の戦いなどではない。格闘技というものに抱いた、二つの異なる「世界観のぶつかり合い」だったのだ、と。

中井祐樹が基礎を作り、佐藤ルミナが整地してきた修斗の王道を、ダンプカーと化した新世代の五味が轟音を蹴立てて押し渡るとでも言うべきか。ただ、今その礎となって容赦なく踏み付けられているのは、ほかならぬ佐藤ルミナであると
いうのがなんとも皮肉だ。

約一年ぶりの修斗の試合に、五味は恐るべき存在に成長して戻ってきた。その動きに一切の無駄はない。3Rも半ばを越えた段階で、もう僕はこの試合を見る必要は無いとすら感じるほどだった。徹底した「叩き潰し」。格闘技の恐怖側面をこれでもか、これでもか、と見せ付けられた結果、僕らの目の前でルミナが壊されていったのである。もう10ラウンド以上戦ったかのようにクシャクシャにゆがんだ表情を見せたルミナと、まだ10ラウンドぐらい闘えるぜと言わんばかりにクールな表情を浮かべた五味。これは27歳と23歳という両者の年齢差以上の物を感じさせる場面だ。そこには、偶像ルミナの破壊、修斗リングを支配してきた「極の呪縛」の崩壊といった構図がくっきりと現れていた。

五味がこの日成し遂げたのは、そうしたすべての偶像の破壊である。よりリアルに、そしてドメスティックに。五味の革命がついに成し遂げられた瞬間だった。

ベルトを手にした五味はリング上で「このベルトを狙ってくる奴はみんな叩き潰しますから」と叫んだ。その言葉に嘘はあるまい。五味は自らのスタイルで、「極」至上主義に陥っていた修斗の価値観を塗り替えていくはずだ。

UFC参戦を強く望んでいると伝えられる五味にとって、修斗の王座を背負ったことが、その目標に対する近道になるのか、それとも遠回りになるのかは現段階では判断できない。だが一つだけ確実に言える事がある。エンセン井上という例外をのぞけば、五味隆典は、修斗が生んだ初のアメリカンウェイのNHBチャンピオンなのである。彼が王者として君臨することで、修斗は総合格闘技の世界標準に向け最後の扉を開いたことになる。そしてその先に続く道は、遠かれ近かれいずれ五味をオクタゴンへと導くはずである。

▼この大会のレポート&写真はこちらに掲載しています。
http://www.boutreview.com/news/data/grappling/1008512930.html


※BoutReview EXpress [Special Issue] (Tue, 18 Dec. 2001)より

投稿者 井田英登 at 01:00