このところ遅ればせながらファンキー物のオルガンジャズを発掘中。今日は、近所の中古屋で大量にグルーブ・マーチャントレーベルの出物を発見して、小躍りしてしまった。
ジミー・マクグリフの「Fly Dude」とか、リチャード・グルーブ・ホルムズと組んだ「GIANTS OF ORGAN IN CONCERT」とかを総ざらいしてくる。まあこの辺は評価も定まってて、グルーヴィさ満点。ただMM&W(メデスキー、マーチン&ウッド)とかJTQ(ジェイムズ・テイラー・クァルテット)みたいな今時のオルガンファンクのほうが、ピンと来る。音も張り切って歪ませ過ぎちゃうの? そのオルガン風邪ひき?みたいな(笑)
むしろ一緒に買った同レーベルのラモン・モリスの「スィート・シスター・ファンク」がすばらしかった。これは、事前情報なしの衝動買いなんだけど。この人、70年代後半のフュージョンに押さて低迷時代のジャズメッセンジャーズのテナーを務めた人だというんだけど、JM時代のレコードは聞いた事がない。これが唯一のソロ名義作品らしく、普通ならハズレの予感ありありの代物。ところが、これが総毛立つほどよろしい。(髪の毛ないですけど(笑))
いかにもJM出身らしいキメキメの二管ユニゾンのハードバップ風な出だしかと思ったら、うねうねのソロフレーズを連発して、みるみるスケベなファンキー方面へ引きずり込んでくれる。表題曲の「スィート・シスター・ファンク」なんかは、ワウを効かせたギターのカッティングがお洒落な、ちょっと70年代ののハードなブラックムービーのサントラにでもありそうな曲で、ありもしない追跡シーンとかが脳裏に浮かぶ。オルガンも脇に徹しながら、主張する所はツボにはまりまくってていいし、ベースのウネリが凄い。全体になんか喉を焼く酒が欲しくなるような、濃い〜一枚。
つーか、こんなシブいレーベルの発掘を地道にやってる、P-VINEってやっぱりエラい会社だなあ。
ブルース一辺倒だった時代から、ちょこちょこ買わせてもらってるけど、ホント黒筋のいいレコードを出しまくってるのね。もう信念を通り越して、“いい音楽を死なせないぞ”みたいな執念を感じる。
「負け組」「負け犬」といった言葉が流行るのも、結局、現代が競争社会であるからに他ならない。格闘技と言う妥協の無いスポーツが、一般からの希求度を増しているのも、日々人々が社会と言う大きな競技場で「闘っている」という実感を持っているからではないか。
これまでだって弱肉強食の社会構造は厳然としてあったが、その構造は逆に階級や差別という制度で「階位」を設けながら、全ての人に何らかの居場所を与え、「組織内の身内」ということで取り込まれた、“居場所ある社会”と言い換える事も出来るヌルさやユルさが残ったものだった。
だが、個人の人権が過去最高に認められるようになった現代は、生きる上での権利も責任も全て「個人持ち」となった社会でもある。成功するのも、失敗するのにも個人が個人の力量で道を切り開かねばならず、敗者/弱者に対するセーフティネットもほとんどない。
どういう事情があろうとも、資本という大きな一つの「ルール」に従って、“人の生き様に明快に白黒を付けてしまう社会”という言い方ができるだろう。
「資本主義」=金を集めるというゲームであり、行動に動機も要らない。勝つ事、勝負する事が自己目的化しており、全ての価値観を金に集約して行く。
そんな構造の中では、行動に余分なモチベーションもルサンチマンも持ち合わせない堀江氏のような人間が、「勝ち組」として浮上してくる。
堀江式M&Aは、コンテンツの内容がなんであれ「資産価値」があれば買う。買って支配する。そして資本総体として肥大して行く事だけを絶対目的として、脇目もふらない。
だが彼が錬金術の持ち札として振り回す「ライブドア」を見るがいい。このサイト、ポータルサイトとしての質を言えば、まったく“使いで”のないB級品でしかない。
例えば、飯を食うのに「グルメコンシェルジェ」や「ぐるなび」を使うことはあっても、まずLIVE DOORグルメは使わない。元々、負け組として消滅しかかっていた「東京グルメ」を買って、LIVE DOORのコンテンツとして統合したわけだが、あれだけ食い意地の張ったホリエモンのサイトとしては、調査力もないし、情報としてもお寒い。旧来の「東京グルメ」時代以上に散漫な内容となっていて、単に投稿者の脈絡の無い評判記事のみ。写真も無いページがほとんどで、実証性もない。結局現場には人も金も回っていないせいだろう。コンテンツはLIVE DOORの金メッキの看板を掛けただけで、埃をかぶってしまっているのだ。
そのくせ、「店に行ったらLIVE DOORグルメで見たって宣伝してください」と来たもんだ。何から何までユーザー頼り。サイト運営の意図も、制作者の意見や見識もない。彼らがやたらBLOGにこだわるのも、結局「客が勝手に作ってくれる」コンテンツだからなのだ。
正直、そこらの個人サイトの方がまだしも、飯を食う上での指針となるし、そういう腰の据わったレポートを書く人でLIVE DOORのBLOGを使ってる人間はほとんど居ないはずだ。
これが堀江的買収の正体だと僕は思う。
コンテンツとは、その素材にこだわる思い入れや心情、個人の視点、自分がその対象になぜこだわるのか? を突き詰めていく過程で生まれるものではないか。
いわば、食事の旨い不味いの絶対評価を付ける行為ではないのである。語る対象を通して、自らの嗜好であり気持ちを語る、“自分語り”があるからこそ、文章が熱を帯び、そして読者を興奮させる。これは対象が音楽であっても、ブンガクであっても、またスポーツであっても同じ事ではないか。
真ん中に人が居て、コンテンツは成立する。
やらずぼったくりの「勝ち抜け脱線ゲーム」思想では、コンテンツは絶対育たない。
話がすっかり遠回りになったが、実はここで話題にしたいのは、ウルフルズの新作「暴れだす」という曲の話。新しいアルバム「9」で僕は聞いたのだが、シングルカットもされているので、きっと耳にした方も多いだろう。
この曲の主人公になるのは、常に自分の思いの過剰さに、世間との折り合いが上手く付けられない、ちょっと「負け組」サイドのアウトロー。多分、ロックミュージシャンとして様々な浮沈を繰り返して来たウルフルズのボーカリスト・トータス松本のストレートな心情を吐露したものではないだろうか? 僕にはどうしてもそう聞こえる。
“ああ、神様、俺は何様ですか
どうしていつもまちがうのか?
悩みは絶えず、オトナになれず
眠れぬ夜を今夜もまた
ああ、笑ってごまかす、声もむなしく
飛び出していくことも出来ないままに
もしもあのとき心にもっと余裕があれば
今までこんなに人を悲しませずに済んだ”
シンプルながら、切実で非常に深いテーマを歌っている。自分の想いが社会と合致せず、通じて行かないディスコミュニケーション状況へのもどかしさ、そしてそれに抗う事もままならない“不器用な自分”=負け犬である自分への苛立ちを語った歌詞だと思う。
これまで、松本の書く歌詞はどちらかといえば「アホで結構」と、アウトローである事、世間に馴染まない不器用さを逆に誇らしげに歌い上げる“アホアホパワー”主義に貫かれて来たと思う。それは確かに威勢はいいが、ある意味「負け犬の遠吠え」であり、一般社会に世を向けた“仲間内だけのファンタジー”でしかなかったのではないか、とも思う。
彼の中でこの作品を生み出すにあたって、どういう変化があったのかは知らないが、今回松本は、初めて「ダメな自分」「社会の歩調からこぼれ落ちた自分」を直視し、その弱さ、その辛さを直接に言葉にしたのである。
それだけなら、トム・ウェイツ的な「負け犬の繰り言」を賛美するネガティブな歌で終わってしまう所だが、その繰り言の後に続く歌詞は、そんな自己満足では終わらない、突破力をもった強い一節へと続いて行く。
“人のために出来る事があっても
人のために生きる事はできない
ああ、胸が、暴れだす、暴れだす
誰かそばにいて”
今ある自分の限界を知り尽くしながら、そのダメさの先にある自分だけの“確信”を捨てる事ができない。いい子になって、負け犬として社会に吸い込まれてしまう事の出来ない自分の魂が、「暴れだす」という言葉で救い上げられ、そして肯定される。
「誰かそばに居て」という言葉も、決して泣き言や甘えではない。
“負け犬では終われない俺を、認めてくれ”“神が否定しても、そばに居る君だけは認めてくれ”そんな、切実な祈りと希求だと僕には聞こえた。
その意味で、この歌は、今の時代に生きる僕ら「負け犬世代」が、LOSERのままで終われないぞ、という想いでシステムの軋轢に立ち向かう、心のテーマソングとなるのではないかと感じた。
個人的には「何がホリエモンじゃ、くそくらえ」って感じ。誰でも銭金に転ぶと思うなよ、って感じ(笑
その意味で聞くなら、同じアルバムの「バカサバイバー」もいい。バカ賛美シリーズではあるけれど、なんかかつての植木等やクレージーキャッツに通じるパワーがあって、“突き抜けた”感じがいい。
誰か、これ入場テーマソングにしてくれないかな?