最近のBGMは、もっぱらドナルド・フェイゲンの新作「Morph the Cat」。
相変わらず「霊のような巨大な猫の化身がニューヨークに舞い降りる」なんて超シュールでキッチュな歌を、あの官能的にうねうねしたスティーリーダンサウンドに乗せて歌ってくれる。当分これ一枚あれば、他になにも要らない感じ。ちなみに、「猫の化身(のようなもの)の降臨」というイメージは、9.11のテロを言い換えているのがありあり。ただ、なんで降ってくるものが“猫”で、その光景に市民がうっとりしちゃうのかは謎。
意地クソの悪いフェイゲンのことなんで、多分「テロ食って被害者面してる君たち、実はすっごく今充実してんでしょ? 完全無欠の被害者になれてうれしいんじゃないの?」ってトコだろうなと思ったり。全ての人間が他人の視線を意識し、作為的なキャラを演じている劇場都市NYに舞い降りる物は、雪であろうと、爆弾代わりの旅客機であろうと、ゴジラであろうと、訳の判らない猫の化け物であろうと、全て市民の演技の背景でしかない。芝居のトーンが悲劇であれば、市民=役者たちは大げさに泣きわめくだろうし、逆に喜劇であればスラップスティックを演じるだけ。何が起きても、彼らは“観られる自分たち”に酔い、そして恍惚を感じる。泣きわめきながら歓喜に浸ってるなんてのは、世の全ての愁嘆場に見られる“普遍”だもんね。
もちろんそれがフェイゲンのホントに言いたかった事かどうかはわからない。フェイゲンのインチキな歌詞とスノッブなサウンドに、僕の意識が乱反射しただけの話。ちぇ、燻し出されちまったよ。でも、誤読によって導き出される迷宮は、歌にさらなる奥行きを与えてくれる。だからこっちも、勝手にその迷路でウロウロさせてもらう事にする。
表現という行為は、“発信”では完結しない。
作品はアンテナを立てた受け手の脳にイリュージョンを現出させ、受け手は作品に煽られ、恍惚を覚え、錯乱し、反発し、作り手の意図を越えた様々な“解釈”を編み出して行く。そうした“消費”に洗われた作品が、最終的に行き着く先は、もう作者個人ではコントロールできない。
格闘技の試合ももちろんそう。
二人の人間が織りなす、攻防の中にどんな感情を読み出し、如何に自己を投影させるか。優秀な感性をもった観客こそが、最終的に感動的な試合の“解釈”を作り出すのであって、選手もマスコミもそのイメージ作りの手助けをするに過ぎない。
そこに絶対的な真実はない。
“無い”のにあえて権威ある三名のジャッジの主観に「判定」をゆだねてしまう、格闘技のゲーム性って好きじゃない。一本か、KO以外に勝ちなんて決めなきゃいいのに。規定時間内に勝負がつかなきゃ、みんなドローで何が悪いんだろ?
そんなことを、空行く雲を追いながらぼんやり考える午後。
すっかり“猫型の曖昧なもの”に恍惚としているトーキョー市民が一名。