Hideto Ida's Blog 〜 時に放浪、日々朦朧 〜

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07/12  書く行為と孤立 / [contact sports:格闘と葛藤]
拝啓、読者諸兄

眠り暮らしている間に、また書いたものに関して掲示板で一騒動があったようですが、例によって僕のスタイルを通させていただくことにしたいと思います。

「書いたものが全て」
今回も、またこれからも、可能な限りこの考えを貫くつもりです。僕の書いた文章の意図を読み出したいなら、テキストに語らせてください。書かれた物を全て吟味し、行間を読み込んで、自分なりのお答えを探してください。テキストの語らないモノは、僕当人も語りません。

如何にそれがお酒の席であろうとも、路上であろうとも、あるいは地下室に監禁されてナイフを突きつけられた状況であろうとも。そもそも親から貰った名前を掲げて文章を書くことを始めた段階で、そこはギリギリの場所であると考えて来ましたから。

読者軽視の傲慢? 
いや、僕が読者である場合でも、書く者と読む者は同じ地平には居ないと考えてきました。居るべきではない、とも。




僕はカラオケが嫌いです。

そこには「歌」に対するリスペクトがないからです。歌を解釈し、自己の表現として技を磨いて、人は歌手になります。マイクを握り、ステージに上がるために、一線を越えるための努力を積みます。しかし、何より大事なのは、自分の歌を聴くために集まった客席の人々と“対決”する「覚悟」だろうと思います。それが無ければ「一線」は越えられない。

一方、カラオケボックスのマイクは、一時間いくらで誰もが握れる物です。
そこには「覚悟」もないし、歌に込める「想い」も生まれない。

技量だけを言うなら、“プロ”と“アマ”に上下は無いかもしれません。それどころか、プロを凌駕する力量を持った高校生が居て、アマチュアとしてカラオケボックスで歌っていても何の不思議も無い。

しかし、カラオケボックスには彼(もしくは彼女)を目当てにやってきた「観客」は居ない。

同じボックスに居るのは、次に自分が歌う歌を探して歌本を繰る友人だけです。おざなりの拍手や間の手はあっても、歌に聴き入る「リスナー」ではない。

その構造を、僕は読者と書き手の関係に見ます。
表現する者は、「観客」と一線を画してステージに上がる人種でなければならない、と。

多分、オンデマンドのネット時代には古い考えかもしれませんが、それでもなお、表現する者はステージに孤立してあるべきだと信じます。(そして、その位置関係だけを捉えて、どっちが「上」だとか「下」だとか言いたがる馬鹿は死ねばいい。)

ステージサイドに立ち、イントロの第一音が鳴り出す直前まで、己の心の中の怖れと対峙し続ける人間にしか、歌えない歌がある。震えるヒザを押さえ、自分の技量を越えるために眠れぬ夜をいくつも過ごした人間にしか判らない境地がある。

そう信じるからです。




「読みたくない奴は読むな」とは絶対言いません。
それこそがアマチュアイズムだと思うからです。

逆に、この言葉を読者への挑発として提出したいと思います。
「イヤでイヤで仕方が無い事を書かれていて、それでも読まずに居られない物を作るのが僕らの仕事です」と。

その意味で、ゲテモノだ、いい加減なミセモノ主義だと叩かれながらも、視聴率をキチンと叩きだすメジャー格闘団体のプロデューサーたちも、立派なプロだと思います。

彼らのプロイズムに、僕も僕なりの視点とプロイズムで対抗して行くつもりです。これからもそういう「闘い」を、読者とも、そして取材対象とも妥協せずにやっていきたいと考えています。





そういえば、先日、某大会の会場でスタッフの人にこのBlogについて励ましのお言葉を頂きました。正直、どれだけ業界の人の目に触れているかは判らなかったので、素直にうれしかったなあ(笑)

そしてリクエストとして、その日の会場で流された「煽り映像」についても書いてみてくれと言われたので、極々私信的に感想を。

選手紹介としては、抜き出すコメントも非常にツボにハマっていて、取材している側の僕らとしても、その選手がその日何をテーマに闘おうとしているかが、判りやすく畳み込まれた物だったと思います。全然ケチをつける余地はありません。

ただ、あえて言うなら、「ケチをつける余地がない」というのが問題か、と。もっと作り手の“エゴ”なり“視点”なりが突出した「冒険」はできたんじゃないかな、とは思います。

今回で言えば、セミの選手が戦前のインタビューで発した「キーコメント」を、きちんとピックアップしていて非常にいい仕事だなと感じました。ただ、そのコメントに対して「だから、頑張れ」とありがちなフォローをするのではなく、「ホントにできるの?」と冷たい検証を突きつけてみたり、あえてライバル選手を引っぱり出して何か挑発的な事を言わせたりという“仕掛け”とか“裏切り”は出来たかな、と。今、その選手はまだネガティブな逆風と闘うポジションでもあると思うので。

そういう作り手の「視点」をもっと、客席に押し付けてもいいと思うんですね。




半年ほど前にこのBlogでも、ZST会場で流された煽り映像に関して、「選手をからかって、どーすんだ」みたいな事でボロクソに書いた記憶があります。(多分、それがあったから、このリクエストもあったのかなと、思ったりするんですが(笑))

あくまであれは「チャレンジして失敗した」例だと、僕は考えています。中身は買わないけど、あえて“飛ぼう”とした「蛮勇」までは否定しようとは思わないんです。

煽り映像が、その日会場に訪れたファンの“空気感”を「この方向で引っ張りたい」という強いを主張してもいいし、もちろん映像作品としてもっと遊んでもいいと思います。その冒険が失敗したら容赦なく叩きますが(笑)、それで“飛べなく”なってしまうとしたら、作り手としては「それまで」のはず。

以前、修斗の年末のNK大会で、サステインの坂本社長が主演したハードボイルド映画風の“オープニング”映像が流された事がありますが、あれなんかまるで試合本体とはカラミのない「遊び」映像だったわけで。ただ、主催側の「一本の映画のように大会を見てくれ」みたいな主張はちゃんと押し出されてて、会場の“空気感”に働きかける面白い試みだったと思います。

極端な話、そういう映像部分を目当てに会場に足を運んでくれるファンが居たっていいんじゃないかと思ったりします。

また音楽の話になっちゃいますが、プロモビデオなんか、昔は天気予報のバック映像にしか使われなかった「お添え物」に過ぎなかったのに、それがMTVを生み出し、才能のある映像作家をどんどん輩出したり、作品自体がDVDにまとめられて商品になったりという主客転倒の流れもあるわけじゃないですか。

例えば岩井俊二とかスパイク・ジョーンズとかの映像作家を起用してプロモ映像を作ったら、格闘技界にだってそんな流れが出来ないとは断言できないんじゃないか、と。煽り映像目当てに会場を訪れたり、DVDに収録されれば、それを見たくて買う客も出るでしょうし。変なアンダーカードなら削っちゃって、その分映像にお金と時間をつぎ込んでもいいんじゃないかと。それぐらい「高い」ポイントを目指したってバチはあたらないと思うんですよ。

選手の頑張りや、カード編成だけじゃなく、ライトショーや音響、リングアナやラウンドガール、そして煽り映像。会場で観客が経験する全ての「熱意の総体」がイベントのバリューをアップさせると思うんで。それこそ入場テーマを全部一つのバンドのオリジナルにして、全試合そのバンドの生演奏で流したり、イベント自体、今ある形をどんどん壊して行く試みがあってもいいと思うんですね。

ただ、現段階では予算とかキツいのは判ってるんで、お金が絡まない範囲で何が出来るか、というアイディア勝負になって行くとは思うんですが。それでも、きっと何か「新しい事」をやる余地はあるはず。





きっとそういう「冒険」を敢行したら、「独りよがり」と叩く輩も出てくるとは思います。

でも、その声をねじ伏せてでも突出して行くのが、さっきも書いたけど、“表現活動”だと思うんですね。「たかが煽り映像に何キバってんの?」みたいな冷めた声なんか、クソ食らえでいいんですよ。作り手は、客の罵声なんか無視して、どんどん“我が道”を往けばいい。

どんな世界でも、そんな遮二無二な馬力だけが、新しいものを作り出すのだと信じています。

投稿者 井田英登 at 06:45