Hideto Ida's Blog 〜 時に放浪、日々朦朧 〜

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06/22  正義の「見方」 / [log:備忘録]
↑誤字ではない。
“正義”という曖昧で、気分任せの価値観の、解釈法についての話。

最近は特に、物事に短絡的に白黒を付けたがる人間が多い気がする。
格闘技という、時間限定でとっとと白黒の出る、結果の明快な(はず)の闘争が、見せ物として流行っているのも、そのせいかもしれない。

ただ、本当に明快である事、きちんと筋の通った結論を求めているかと言えば、案外そうでもない。実際にその白黒を付ける方法論は、その時の気分任せで曖昧だったりする。大声で押し切ったり、脅しをかけたりで、見た目の「白星」を取る事に執心する「正義」のなんと多い事か。権力には沈黙を貫くくせに、権力の無い人間には、声高で強硬だったりするケースもご同様。判定の一番肝心な所でグレーゾーンに足を突っ込みながら、形ばかりの「判決」を下して、見せかけの安心を買おうとする。

結局「自分の正義」を他人に押し付けないと落ち着かないだけで、「真実」などどうでもいいのかもしれない。早く、見せかけ上すぱっとしている事、自分の言い分が「間違いでない」という証明をインスタントに欲しがっているだけなのだ。

また局所的な“正義”を貫こうとする事で、大局に成し遂げられようとしていた“理想”が押しつぶされたり、逆に大の虫を生かすために、小の虫が殺されるような事態が起きたり。宗教戦争の例を引くまでもなく、結局「正義」ってのは陣取り合戦で勝利した人間へのご褒美でしかないのか? という気がしてくる。

かように正義を巡る問題は、常にあさましい人間のエゴの押し付け合いに終始する傾向がある。

人と人が平等だというなら、その欲望も等価だ。一人一人にそれぞれの立場があり、守らなければならない価値も多種多様。

我慢強く条件をすりあわせ、歩み寄れる余地を探す事以外に、対立の解決法などない。常にどんな局面でオールマイティに『正しい事』など、この世には所詮あり得ない。

だが、「正義の人」は常に性急だ。声高に「自分の正義」を言い立て、その「正義」の名の下にオール・オア・ナッシングの結論を要求する。そして、頭に血が上った勢いで、「俺には三分しか無い。お前悪い、だから殺す」でスペシウム光線発射。

自らが主張する事が「正しい」と思えるなら、なぜ結論を急ごうとするのか? 瞬間の正義感で、「自分にとっての悪人」にマシンガンを乱射するような事が、彼の正義には合致するのだろうか?

「性急な正義の味方」は、何がしたいのだろう? 
僕自身も、気が短いというか我慢が無いほうなので、自分自身への問いとしても問題提起したい。

証拠が出て来ないから、許せとは言わない。
しかし、相手の言い分を完全無視するのが正義だと言われたら、ちょっとその正義に疑問を突きつけたくもなるではないか?

スピーディーな冤罪より、時間をかけた真実追求。
スローがいいのは料理だけじゃないはず。

ヤミクモに多数決を言うわけではないが、説得力の薄い「正義」を行使しようとする人間は、いつかその「正義」を支えるためにイカサマを持ち出さなければならなくなる。

「正義」とは結局、理の首尾一貫性であり、その理屈でどれだけ多くの人の賛同を得られるかで生まれる。一人の人間の声の大きさや、権力の都合によって生まれる「正義」などあってはいけない。

そして、多くの人間の理解を得るためには、自分が争ってる相手の状況や気持ちにも配慮して、ゆっくり着地点を見出すべきである。もっと話し合いを、もっときちんとした真相究明を。でなければ、誰も報われない。

「俺の気持ちは誰にも判らない。悪人で結構」と捨て台詞することも、「お前は所詮猾いやつ」と決めつけて印象だけで相手を糾弾することも、結局短気と言う点ではそっくりだ。

そんな「短気」に押しつぶされようとしている「何か」は、そこで息の根を止められてしまっていいほど、無価値なものではないはず。

僕はその事を思って眠れないのだよ、兄弟。


投稿者 井田英登 at 19:18


06/18  格闘gen論〜“引き抜き”は根源悪か?  / [contact sports:格闘と葛藤]
たった10日足らずの関西逃避行取材行だったが、いろいろまとめて考える時間が取れたのは“遠隔状態”の賜物かも。もう少し時間が欲しい気もしたけれど、このラウンドは一旦終了。また、落ち着かない東京での日々が始まるかと思うと少しユーウツ。

移動中は、もっぱらばうれび誌面で新しく始めるつもりのコラムのレジュメ整理に追われる。

このコラムシリーズでは、All Aboutの「時評」では断片を晒すだけで終わってしまっていた、僕自身の基本理念「メジャースポーツとしての格闘技像」について、どういう輪郭やパースペクティブをもって物を言っているのか、一回きっちりとまとめてしまいたいと思っている。

タイトルは「格闘gen論」で、ほぼ決まり。
genとあえてローマ字にしたのは、当て字がいくつかマルチに重なっていることを意味する。

・Boutreviewの意訳である「格闘“言”論
・経済論、社会論の角度から格闘技の現状を分析する「格闘 “現”論
・格闘技の未来像を自分なりの理想に沿ってデザインする「格闘 “幻”論
・格闘技がどのような過程で武道と分岐したか、その成り立ちを考える「格闘 “源”論
・格闘技をどう見るか、どう解釈するかの方法論「格闘 “原”論
・現在の格闘技が陥っている構造的問題点を指摘する「格闘 “厳”論

格闘技に関して物を言う人間としての、僕なりの立脚点を全部晒してしまえという試みになると思う。特に、「源」論の部分は、もう十年越しで書きたいと思っていたもので、「こんな辛気くさい話誰も読みたくないよなぁ…」と自主的にオクラにしていた『ゲームと真剣勝負』の構想をついに形にすることになる。

かなり読者を選ぶ試みというか、多分大半のばうれび読者にはスルーされてしまう物になるような(笑

ただ、今回のAll Aboutのコラムを巡るような議論が勃発した時に、井田というライターは、何を理想に、どういう背景を頭に描いて、どの立場から物を言っているのか。その基本理念をお目にかけるつもりである。

一見、堅苦しそうな話に聞こえるかもしれないが、要は「論理の補助線」を当てる事で、「勝った負けた」だけに留まらない格闘技の多角的な楽しみ方や、チケットを買うだけの一方的な消費者ではなく、ファンとしてサポーターとして見る側がシーンにコミットして行く方法論の提案できればいいなと思っている。

毎月のAAJ四本だけでヒイヒイ言っている遅筆の人のやることなので、せいぜい月一本ペースで発表できればいいかな程度の話ですが(笑





あと、ばうれび自体の運営も、ついでにいろいろ変えてしまおうと思っている。今のニュースサイトスタイルはもちろん維持していくつもりなのだけれど、この際もっとオープンな物に組み直して、読者参加のやりかたも掲示板に限らず、投票システムや読者Blogをサイト内部に組み込んだやり方ができないかと考えている。

これまでサイレントマジョリティだった、顔の見えない“ファン”の総意のようなものを、ネット特有の仕掛けであぶり出してみせたいのだ。

具体的な仕組みはまだ企業秘密。

多分密接にシステムも絡んでくるので、手伝ってやってもいいよというエンジニア系の人が居たら是非ご応募を。あと、誌面のあり方や運営方針に関しても、もっと外部の人の意見を聞きたいので、ブレーン的に絡んでくれる人も欲しい。多少オトナの人、年齢はともかく、格闘技しか見えていない視野の狭い人ではなく、一般社会に対してきちんと格闘スポーツを普及させるための手段を考えて行ける仲間で、ばうれびという道具を使って何がやれるか、一緒に考えて行きたいのだ。

いままではライターやカメラマンなどでボランティアをお願いして来たのだけれど、そういう“賢人会議”的な仲間の助けを得て、もっと媒体としての基盤を強くして、奥行きのあるものにしたい。

僕個人の漠然とした予感では、格闘技ブームと呼ばれる物は、ここ数年で多分終焉してしまうと思う。その先、格闘スポーツは最悪「バブル崩壊」あるいは「冬の時代」を迎えるのではないかと。無論、そんな予感は当たらないでいて欲しいのだけれど、多分表層的に今のブームの熱気に吸い寄せられて来た層は消えてしまうのではないかと思っている。

そうなってしまってから場当たり的に対応策を考えても遅いので、今からキリギリスのように「冬支度」を始めたい。コアに閉じこもるのであれば、多分規模は小さくてもファンは残るだろうと思うけれど、そういう消極的な話ではなく、サッカー界が「Jリーグ100年構想」を打ち出す事で、本当に社会的に支持されるスポーツとして生まれ変わったように、格闘技が、100年200年のスパンで、きちんと社会に受け入れられる姿をイメージして、それを支える思想をファンの側から模索できないだろうか、ということなのである。

そういう思想をきちんと組み上げて、クレバーなファンを作るのも、また媒体の仕事であると思う。ただ既成の媒体にはそういう指向性はあまりないと思う。善くも悪くも、現状をレポートする以上の役割を果たしていないのが今の格闘マスコミのあり方だと感じている。

はなはだ僭越ではあるがBoutreviewという場所を、僕はそういう未来志向の媒体として変えていきたいと思っている。どれだけの支持を得られるかはわからないが、可能なら「冬の時代」が来ても、格闘技ファンがその先の「春」を志向できるシェルターにしたい。冬が来ない場合は、常夏の世界で“焼け死なない方法”を模索しましょう(笑)

当然、冬の時代が来るかもしれないというのなら、Boutreviewの発行元である、Muscle Brain'sという会社の在り方自体、今後もっと多角的に経済的にももっと強い基盤を作って、展開して行かねばならないと思っている。今も実験的に格闘技にまつわるショップ展開やマネージメントをやってはいるが、これを本格的な事業にして行く上で、助言できる人や製品開発にも携われる人が欲しいところ。例えば、Tシャツブランドの開発や、映像配信などもやっていきたいので、デザイナーさんやプランナー、企業関係の方で「商売を一緒にやりましょう」という事業提案なんかでもいいのだ。

ぜひ「血が熱く、頭のクール」な方の挙手を期待したい。
まあ、井田って奴と一杯やってみようか、ぐらいの気分でどうぞ。

ida@boutreview.com






とか、そんな事を考えつつ、ヒント代わりに「サッカー批評」(双葉社)という非常に優れたスポーツオピニオン誌の先達をパラパラと読み進む。例えば、僕らの未来の一つの選択肢はこんなスタイルかもしれない。

特集は「Jリーグはもっと強くなれる」。西部謙司さんの巻頭記事は海外リーグの選手移籍事情とその経済論に踏み込んだ力作。非常に刺激になる。さらに「代理人とは何者なのか?」と銘打った田邊伸明氏のインタビューなど、相当脳を揺すられる。

今回の特集では、クラブ間の選手の選手のやり取りが、最終的にサッカー界全体にどう波及するのかが浮き彫りにされているサッカーというメジャースポーツにあっては、移籍によって生じる金銭の還流が、選手個人の欲望や、ビッグクラブの思惑を越えて、放出する側のクラブを潤す構造があるのだ。

端的にいえば、完全にオープンにされた「移籍金」というルールが、それを可能にしている。金銭問題に関してクローズな格闘技界にそのまま当てはめて考える事は難しいのだが。

こういう物を読まされてしまうと、僕がAll Aboutで書いた武士道リニューアル記事は、多分に感情的要素の入った「メジャーのスター総浚え」状況に対する反感を書いていたにすぎないのではないかと、反省させられる。

“引き抜き”や“レンタル”を必然と考えるなら、それをインディ団体の「経済的干上がり」や「メジャーへの従属」に堕さない方法論が必要なのだということが判ってくる。

うーむ、まずコレをやっつけることが「gen論」の第一弾になるのかもしれないぞ…。

投稿者 井田英登 at 18:49


06/17  若林太郎さんへの謝罪メール / [log:備忘録]
若林様

BOUTREVIEW井田です。
先日は、プロ柔術関西の会場でお世話になりました。

BLOGの方拝見しました。
青木選手の記事の件、本当に軽卒な記述をしてしまい申し訳ありません。網膜裂孔が安静にしていれば治る病気だというのは知っていたのですが、青木選手の場合、一ヶ月弱で治る程度の物であるとは認識しておりませんでした。マイクアピールを聞いた段階で「ああ、じゃあ当面柔術をやっていくんだな」と勝手に思い込んでしまって、あんな記事を書いてしまった次第です。

文中、中井さんとの対比を書いた事で、「じゃあ青木選手は修斗には永久に上がれないんだ」と勘違いして取ってしまった読者も居るようで、その点でも配慮不足でしたし、ご指摘の通り、青木選手に目の件をあの場で聞く事をすれば4日後のライセンス取得とちぐはぐになるような記事にならずに済んだのにと、今非常に反省しております。

ご指摘の通り、記事は、受け取り様によって選手にネガティブなイメージを与えてしまうものであり、もっともっと慎重に取材をするべきであると、自分でも判っていたはずなのですが。

今考えると、最近プロイベントの取材があまり楽しくないなと感じていまして、そこに、あの大会全体がいい感じで進行していていて、自分自身の柔術観を修正しなければいけないな、ということを取材中ずっと考えておりました。正直、あまり楽しく感じたので、少し浮かれていたのですね。浮かれすぎて、「青木選手が早川選手に挑戦でシーンを盛り上げてくれるなら、これは派手に書かなきゃ」みたいなあざとい考えがありました。浮かれすぎた末に、逆に選手に迷惑をかける結果になり、猛省至極です。もっと慎重に取材して記事を書くよう、心がけます。

青木選手、若林さん、パレストラの皆様、その他関係者の皆様には本当にご迷惑をおかけしてしまったと思います。
申し訳ありませんでした。

BLOGで書いておられることも、先輩としてもっとちゃんと勉強して頑張れよと言う鞭撻を頂いたと思っています。

まだまだ勉強不足ゆえ、他にもいろいろ間違いを犯しているかもしれませんが、またお気づきの点あれば、今後ともよろしくご指導ください。

BOUTREVIEW井田英登


(レポ&写真) [プロ柔術関西] 6.11 大阪 (2):青木、早川に対戦要求

投稿者 井田英登 at 12:16


06/15  やったろやないの / [library:涜書]
大阪から広島へ。

このタイミングでK-1取材はカンベンしてくれという気分もある。しかし、今だから見ておかなければならない光景、今しか生まれない化学反応もあるはず。

早朝、無理矢理寝床から身を引きはがして、精進潔斎のつもりで頭を剃り直す。スキンヘッドにしてみて、一番の発見はコレかもしれない。気分が後ろ向きになったとき、頭を剃ると気分が変わるのだ。

杜撰にやると、すぐ頭皮が切れて血がにじむ。勢い、手元に集中せざるを得なくなる。手順を守ってじっくり作業に専念していると、雑念が飛んで行く。作業療法のような側面があるのだ。

頭皮の刺激にもなる。脱皮ではないが、表皮に付いた余分な脂や古い皮質が取れるせいか、非常にすっきりする。きっと、頭のツボのような所も刺激しているにちがいない。





移動中読んでいたのは、山口瞳と開高健がそれぞれ前後編を分担してまとめたサントリーの70年史「やってみなはれ、みとくんなはれ」(新潮文庫)。



この二人の作家は、かつてサントリーの宣伝部に所属、「洋酒天国」という伝説のPR誌を編集して一世を風靡したコンビ。当時、オトナの遊び心をテーマにしたこの雑誌は大いに話題となり、「洋酒天国」欲しさに配布店を訪ねるファンが続出したという。要するに、気の利いた雑誌欲しさに酒場に集う嗅覚の鋭い読者が山ほど居たということで、Hot Pepperの割引券を片手にチェーンの居酒屋にコムスメ、コムスコが群れ成すのとは訳がちがう。

その後、開高が芥川賞、そして山口が直木賞という日本の二大文学賞を相次いで受賞。人気作家を輩出したことで、「洋酒天国」の株はさらにあがったわけだが、なにより驚くべきはサントリーという企業の自由闊達さだ。

というのも、この二人、なにも脱サラしてから作家として成功した訳ではないのだ。まさに「洋酒天国」の編集をやりながら、その合間に書いた小説で作家として立ったのである。雑誌の内容も、商品べったりのチラシまがいのものではなく、好奇心の赴くままに作られた遊びの精神満載の娯楽誌。彼らの文学趣味や才覚を活かして、自由に“遊ばせた”結果、その空気感に客が反応して「洋酒天国」はブレイクしたわけだ。

いわばサントリーは、修業時代にあったこの二人の作家の卵の、パトロンのようなものだったのである。

大作家となった後も、この二人の作家と企業は良好な関係を維持し、いくつものヒットコマーシャルのコピー製作やCM出演という形で関わり続ける。

そんな二人が、サントリー70年の歴史を“作家の目”で、じっくり分析したのがこの本。決して太鼓持ちのような露骨なヨイショではない。山口は鳥井信治郎の気まぐれでヤマ師的な資質をかなり厳しい目で浮き彫りにしており、続いて戦後編を描いた開高も、洋酒メーカーとして爆発的な成功を収めておきながら、その成功を全て食いつぶすようなビール開発に邁進し、経済的苦境に立つことを厭わなかった“成り上がり企業”の浮沈を辛辣なユーモアで描いている。

だが、そうした苦闘のなかから浮かび上がってくるのは「何でもやってみなわかりまへんで」が口癖だったと言う鳥井信治郎の想い、すなわちいかなる障壁にぶつかっても新製品開発に余念のない、この会社のチャレンジャー精神である。

鳥井同様、明治生まれの起業家で、生涯会社を作っては潰しを繰り返した父を持つ山口はこう書いている。

「いったい、その突進力は、どこから生じたのだろうか。ヤミクモに突っ込んで行く、その突進力は。私はそれを「青雲の志」と名付けたい(中略)今日、私が一杯のサントリーを飲むことは、明治の青雲の志を飲む事に他ならないのではないか。私は、実感としてそう感じる」






そう、本来、企業とは営利団体であると同時に、『企業精神』というものを背負った一つの大きな“生命体”であり“哲学集団”でもある。創業者が「俺にしか出来ない事」と思い定めたテーマを、法人として受け継ぎ、拡大させて行く集団でなくてはならない。

サントリーが、洋酒を売るだけのドメスティックな営利企業に留まらず、才能ある若い才能を育てることをも、自由闊達なチャレンジ精神の一部として実行できたのは、その底流に創業者・鳥井信治郎の「やってみなはれ」精神があったからだ。面白い物ならなんでもチャレンジしてみよう。意味のある事がそこにあるなら、恐れずに前に進もう。そんな想いが、一見商売のプラスにはなりそうもない酔狂な雑誌の創刊を許し、二人の日本文学史に残る作家の誕生をサポートした。企業としても、その副産物として優秀なCMや洗練されたイメージを得、単なる洋酒メーカーとは言えない社会的存在感を得る事になった。

読み進むうちに、不覚にも目の奥が熱くなるのを禁じ得なかった。

翻って俺にはまだ青雲の志が残っているだろうか?
Boutreview創刊から八年。事あるごとに、この業界がイヤでイヤで仕方がないと愚痴をこぼしてきた。馬鹿げた光景、あきれるような言い草、ぞっとするような愚かさ。いくつものネガティブな事象に晒され、その度に僕のフットワークは悪くなり、書く物は愚痴っぽくなって行った。

最初にこのページを作り始めた時に感じた、あの充実感や前のめりな思いを忘れてはいないか? もう十分やり尽くしたなどと、思い上がった事を思っては居ないか?

そんなものは嘘っぱちだ。
いくつもの目を反らしたくなるような現実を目の当たりにして、立ちすくまざるを得なくなった臆病者のいい訳でしかない。チャレンジすべき事を忘れたら、人間は、企業は、媒体は、全ての運動体は終わりだ。僕個人にもBoutreviewにも、まだやれる事、やるべき事はいくらでもある。

「やったろうやんけ…やったるわ、見とけよ」何の根拠も無いくせに、そんな言葉が呪文のように口をつく。何度も何度も、自分に言い聞かすようにそうつぶやくうちに、いつの間にか広島の街が迫って来ていた。

投稿者 井田英登 at 19:06


06/13  梅雨の晴れ間 / [Monologue:思索と愚痴]
懸案事項が山積み。解決案は霧の彼方。

そんな精神状況でなにができよう。
無力感と厭世観と投げやりな気分と鬱と絶望のミックスジュース状態とでも言おうか。要するに、気分はローギアもいいところ。

正直、ガッコにいきたくない小学生の気分。
お腹のへそのごまを取って、足をバタバタさせて泣きわめいて、押し入れに閉じこもってふて寝をしてしまいたい。

また、そんな状態に追い打ちをかけるように、関西地方は今日から梅雨入り。

昔、自動車事故をやっているので、湿気が増すとテキメンに首と肩の関節が軋みをあげる。この鈍い痛みが首肩を支配しはじめると、タダでさえ鈍い頭が、さらに回転数を落とす。

会場取材にでるのなんか論外の億劫な気分だったのだが、どういう訳か朝からの雨は昼過ぎに止んでしまい、梅雨は開店休業。逆に涼しい風が吹いて、過ごしやすいぐらい。なんだかんだで駄々をこねる材料もなくなってしまった。

昼飯のあと、近所の古本屋を回ったり散々寄り道をして、愚図愚図したあげく、大会開始三十分前になんとか会場にたどり着く。実はまっすぐ行けば隣の隣の駅だというのに。

おエラい人に言わせれば、こういうのはどの職業にあっても全然ダメ男でしょう。プロ失格? いや、人間失格でもいい。

っつーか、誰かレッドカード持って来てくれ。





案に相違して、この日のプロ柔術関西の興行は非常に爽やかというか、適度にリラックスした感じが素敵な手作り興行で、楽しめてしまった。

正直、柔術の細かいテクニックに関しては判らない。
マットの反対側で取材してた、T島学の十分の一も判ってない。

でもそんな半可通にも面白かったんだよ、という気分だけは伝えたくてレポートは余分目に頑張って書いてみた。

梅雨の晴れ間の、インディアンサマー(とは言わないか)。
次が広島じゃなきゃ、そのまま梅雨明けでもよかったんだけれど…。





会場でいくつかの会話。
落ち込むというより憤激に近い。

あれこれどうでもいい事をウジウジ考えて、思考停止してる場合じゃないか。俺には俺の天命があるはず。道を探すよりぶち当たれってことか?

投稿者 井田英登 at 02:07


06/09  逼塞の日々 / [Monologue:思索と愚痴]
逼塞しております。

連日押し寄せてくるイベント、記者会見に馬車馬のように立ち向かって行くロシナンテ井原君を東京に残して、井田は所用を理由に大阪に避難。

ショップのリニューアルといくつかの交渉ごと、そして11日のプロ柔術の取材…とか理由は付けておりますが、実のところ合間合間はゴロっちゃらゴロっちゃらと眠り暮らしております。

ぐうたら以外の何ものでもないわけですが、当人には当人なりの理由がないではない。

長年の机生活のせいか、右肩と指の先に痺れのようなものが出ていて、それの治療をしたところ、“不健康の揺り戻し”でどっと疲れが押し寄せて来て起きれない。コレが一つ目の理由。

もう一つは、大きなテーマの判断が付きかねて、ずーっとそればかり考えて、考えあぐねておる…要するに思考停止状態なんですな(笑)

考え事の種は、他ならぬAll Aboutの記事の件であります。
掲示板にアレだけの書き込みをもらって、この日記でもご返事も書いてみたし、もうK-1パリと武士道という個々のテーマでは、そんなに書き足す事も無いとは思うんですが、根本の問題「格闘技イベントってこのままでいいのか?」ってテーマには何も答えがでていない。それを「これで一件落着」にしちゃっていいのだろうか、と。

この件については、掲示板のみならず、この不人気な日記には珍しくトラックバックをして頂いたり、個人的に励ましのメールを頂いたりで、通常にない流れに書いた方はオロオロするばかりなんですが、これだけ反響があったというのは、結局、多くのファンが今の格闘技イベントのあり方に多くの違和感を抱えているからじゃないのか? 仮にも業界の端っこに居て、その息吹を感じる立場に居るお前が、その声に応えなくていいのか? もっとみんなと一緒にこの問題を先まで考えて行くことをしなくていいのか? コップの中の嵐で終わらせていいのか? 

多くの叱責の声がハゲ頭の中を反響し、ぐうたらでメンドくさがりの編集長は懊悩するわけです。

多分、そのテーマに本格的に挑む事になったら、ばうれびという媒体自体相当あり方を変えて行かなければならなくなるし、外からの圧力にも耐えられる体力を必要とすることになる。今でさえ吹けば飛ぶような状況のウチが、そんな大事に手を出すべきなのか? そもそも出す資格があるのか?

でも、それが本来「格闘技版・ロッキンオン」をやりたいと言い出して始めた、お前の原点じゃないの? 色々書きたいこと、書かなきゃって思ってた事があるくせに、結局All Aboutで小出しの小噴火で終わってて、毎回お前満足だったの?

悪魔も耳元で色々囁きます。
思いはかくも千々に乱れるわけです。
そんな中、いくつか文章もかいてみたけれど、どうにもまとまりが悪い。
当人の中に「これや!」という“得心”がないままに書いてるからなんですな。スコンと腑に落ちてくるものがない。

もう少しだけ、眠って考えます。

投稿者 井田英登 at 14:54


06/02  スポーツ以外の「戦い」なんか、金とって見せるなっつの / [contact sports:格闘と葛藤]
今月のAll Aboutに書いた「K-1パリ」と「武士道」の記事の二本は、興行の出来不出来みたいな部分に触れてる分、カチンと来た読者の人も多かった模様で、早速掲示板にも「勉強しろ」とか「滑稽」とかキョーレツな事書かれたりしてますね(笑)

そもそも、毎回毎回あれもこれも盛り込みすぎて、最終的に何が言いたいかよくわかんなくなる俺の作風が悪いんですけど(笑)。

ただ、なんだかんだ言ってあのコラム自体、他所のお座敷ではあるんで、各方面に迷惑かからないように「こーゆーところはファンからするとこう見えるけど、こっちから見りゃあんな事情があって、そっちから見るとこんな事情もあって、そこそこ悪いばかりではないわけだが、でも言ってみりゃちょっと残念だ」みたいなノラクラ文体で、ワザと回りクドく書いてたりもするわけですよ。

ま、狂犬ブラザースの相方である、某矢作先生みたいに毎回実も蓋もない超豪速球で物言ってたら、この業界に居場所無くなっちゃいますしね(笑)

ただ、あんまマジメくさっててグネグネしたあの文体が好きじゃない人には、微妙なニュアンスが伝わりにくかったかなーとも思ったりもします。てなわけで、ちょこっとだけ自分んちの庭でぶっちゃけのトコをフォローしときます。





で、早い話、あの二本は全く同じ事を書いてる訳です。
ヒトコトで言えば、タイトルの「スポーツ以外の「戦い」なんか、金とって見せるなっつの」ってことです。ホント、そんだけ。

理由? 面白くないから。
そんなもんを地上波で流されて「あんなので喜んでる格闘技ファンなんて、やっぱ幼稚なアホだよなー」とか、一般のスポーツファンから後ろ指指されたくないから。

バンナvsアビディの場合なら、遺恨メインの売り方がいかにもワイドショー的でくだらない、と。いつまでそんな古くさいことやってんの? って思いませんでした? 

一時期のK-1の記者会見でおなじみになってた、ヤラセのいがみ合いとどー違うんだと。ガチで犬猿の仲だろうがなんだろうが、関係ないんですよ。それをメディア側がことさらに強調するってことは、結局、「格闘ファンなんか知能低いでしょ。いがみ合い見て喜んでる野蛮人でしょ」って見下されてる証拠なんですから。

第一、この二人の試合に、そんな雑音ばっかりで味付けして、もったいないなーって、思いませんでした? 

俺は思いました。
悪口言ったの言わないの、犬猿の仲だのなんだのって、いいオトナがそればっかりうるせーよと。PRIDEの方でやるとかやらないとか言ってる、田村vs桜庭だって、因縁自体は結構。それも、ちょっとした味付け程度の扱いなら良しとしましょう。でも、最終的に、外野が他人の好き嫌いの事情にギャーギャー言ってもしょうがないじゃないすか?

ズバリ言って、あなたが金払って見るのは「いがみ合い」ですか?

試合でしょ? 
技術でしょ?
攻防の妙でしょ?
スポーツでしょ?

ワイドショーじゃねーんだぞ、と。
腹に一物ある同志、選手は確かにヒートアップはするでしょうよ。
でも、それは当人たちの気分の問題でしかない。
あくまで、彼らが試合で、得るものはあくまで「勝ち一個」じゃないですか?
K-1が、あくまでコンペティティブなスポーツであるためには、「それ以上」にも「それ以下」にもなっちゃいけないんじゃないか? って思う訳です。

まーったく裏事情に興味がないファンが見ても、試合の中身の魅力がちゃんと伝わるやり方もちゃんと残しといてくださいよと。そう言いたいだけなんですね。

本文でも書いてるんですが(絶対読み飛ばされてますよね(笑))、コレがワンマッチでなくてGP一回戦って設定だったら文句ないわけです。

バンナを倒しても一勝。アビディを倒しても一勝。で、シュルトを倒しても一勝。TOA倒しても、マーベリック倒しても一勝。凸凹はあっても、積んで行く戦績で、選手の扱いが決まる。

トーナメントっていう計測装置は特にそうでしょ? 
無敗=チャンピオン、一個でも負けたら「その他」なんだから。

でも、それがスポーツじゃないですか?
なのにワンマッチに特別な味付けして、一つ勝ったらGPに出すとか出さないとか言っちゃったら、もうそれはインチキだし、GP全体の価値が下がっちゃうんじゃないの? と。

でも、多分それじゃバンナもアビディもやんないすよね。メリットがないから。

一回片がついた喧嘩を公開でやるとなると、両方得が無い。バンナはもう一回負けたら恥の上塗りだし、アビディも勝った喧嘩の結果をひっくり返される可能性がある。だから普通ならやんないわけですね。

でも主催者は話題性があるからどーしてもやりたい。
だから、GPへの出場権ってニンジンをぶら下げた訳じゃないですか?

三回勝たなきゃ出れないところを一回で出してもらえる。
そこがおかしいよと言ってるだけなんですね。
へとへとになってやっとGP出場権勝ち取ったシュルトの立場はどうなるの? って、そう言いたかった訳です。

今年の頭に一回反省して、競技性重視ってことでCIまでやって、ファンの信頼を取り戻そうって時に、またそんなトコで変な事してまで視聴率取りに躍起になってどーすんのと。

度量の小さいエゴ丸出しのフランス人同士のせせこましいいがみ合いを、さも凄い事のように拡大して言い立てるのも、ロクに競技に適合していない格闘タレントの昔の御威光をいつまでも有り難がるのも、うすらデカイ木偶の坊をリングに上げて、ゴングが鳴るまでの消費期限で「凄い凄い」と盛り立てるのも、全部根っこは一緒でしょ?

そういう話です。




で、武士道の方にだって言いたい事は、あんまり変わらない訳です。

DEEP、修斗、パンクラスのトップ所を集めてオールスター戦にしました。
でもこれって四番打者ばっかり並べた巨人とか、世界のスター選手かき集めたレアルマドリッドと同じだなあと。

野球で言うなら一番打者には一番打者の役割があって、四番ばっかり集めたってしょうがない訳です。PRIDEというブランドは確かに顔ぶれの豪華さで売って来た部分があるけれど、有明の興行に関しては、その全ての選手が“巨人のユニフォームを着て一つのグラウンドに立ってる”意味がわかんない、と感じた訳ですよ。

PRIDEオンリーのファンからすれば、一枚のチケットでコレだけの顔ぶれが見れたら、それだけでうれしいじゃん? って話もあるでしょう。

でもね、僕は逆にそれだけだったら、全然面白いとは思わない。
野球でもサッカーでもオールスター戦やりますけど、でも、ホントに燃える試合をやってくれてるかと言えば、そうでもない。お祭りに過ぎないわけです。にぎやかだけど、全体に、そして個人に「テーマ」がない。

だから、賭けてるものが伝わらない。
選手はいつも、どんな相手にだって一生懸命でしょうけど、やっぱ仕組みとして設定されてないものは、ファンの目には見えないスよ。それは主催者の仕事でしょ?

例えばサッカー日本代表の試合は、負けたら四年に一回国の旗背負って世界中の代表が闘うワールドカップって舞台に出られないというギリギリの条件が設定されてて、そのテーマ性がファンを巻き込む訳です。

同じオールスターチームでも、明らかにJOMOオールスターと日本代表じゃ違うじゃないですか。勝たなきゃ意味がないから、そのためにはカズだって切られたし、中田だって招集されない事がある。下手すりゃ監督はクビになる。いつもギリギリだから、抱えてる物が見えるから、ファンだって自分の経験に照らし合わせて感情移入が出来るんだと思う訳です。

好きで仕方がない人間だけが楽しめる「トリビア」や、全然興味がない人間を誘い込むための「スキャンダル」なんかどーだっていいんですよ。

会場で、試合で、リングの中だけで完結していく「スポーツの物語」を育てて行かない限り、格闘技ブームなんて先細りになるだけだと思います。このジャンルがずっと続いて行くメジャースポーツとして認知されるためには、まず十年二十年と、リングの上の競技だけを、真摯に楽しめるオトナのファンを作り出していく必要が絶対ある。

僕が言う「テーマ性」ってそう言うもんです。
競技の中心にある「本質」とがっちり噛み合って、スポーツの部分だけで、そこで行われる試合の勝敗一つで、ちゃんと観客が興奮する事が出来る条件付けがあるかないか、を問題にしてるわけです。

その意味で、今回の武士道にはそういう充実感が得られなかったと感じたから、その角度から意見を書いたんですけどね。

ファンは「Hero's」に勝とうが負けようが、ホント関係ないんすよ。
抜いた抜かれたもね。面白いなら両方見るし、くだらなきゃどっちも見ない。それでいいじゃないですか? 

そんな「戦い」見たくて、格闘技ファンやってる人間ばっかりじゃないでしょ? 

顔見せ興行のにぎやかさ以上の物を、そして「Hero's」へのライバル意識だけで構成したのではないラインナップを、そして一つ一つの試合にもっと武士道ならではの、主張のあるマッチメイクを考えてください、と。もっと客を信じて、自分たちのブランドにも誇りをもって、ライバルじゃなくもっと足下を見てもらえませんか? って事をね。

その辺、PRIDEに限らず、イベンター全般に、「なんか力入れるポイントがちがいませんか?」って言いたくなる事が多いんですよ、直に取材してみると特に。

PRIDEラブな皆さんには申し訳ないですが、そう言う事を折々に指摘して行くのが、逆に“プロの書き手としての公平な視点”だと思ってます。





さっきもちょこっと書いたけど、"遺恨のサイドストーリー"なんてマニアだけが喜ぶ「トリビア」に過ぎないし、"顔ぶれの豪華さ"なんかも、逆に競技になんかまーったく興味のない一見さん向けの「幕の内弁当」でしかないわけで。とりあえずど真ん中の「競技」にあまり集中できない層を、引き寄せる材料じゃないんですか? そういう要素ばっかり並べて「格闘技ブームだ」とか言うのはもうやめましょうよ、と。それが、All Aboutの二本の記事で僕の書きたかった真意なんですね。

スポーツファンってのは、競技自体のゲームとしての面白さと、その勝敗のシーソーで争われる“価値観”に注目するもんだと、僕は思ってます。

格闘技は単なる興味本位の見せ物であって欲しくない、
コンペティティブなスポーツとして世界中のファンに浸透して欲しい。


そう思って僕はばうれびを始めた訳ですから、それが「偏見」だと言われても、僕の作る誌面はその方向性で“きっちり”傾いてます。

それがウチの「テーマ性」ですから。
競技をないがしろにして、他の付け足しの話題性ばっかりのスポーツ新聞みたいな記事も書きたくないし、データばっかりの無味乾燥なレポートもヤなんです。

格闘技の、試合のこういう所が素晴らしいから注目してくれ。
こういう運営の部分が問題で、コンペティティブになってない気がするから、ココは注意してくれ。

それを生の目で見て、可能な限り事実も集めて、さらに長年現場に居た経験と知識を通して、最後は自分の皮膚感覚で言う。
傍観者ではない立場に身を置いて、逃げを打たないで言う。

そうやって「自分の意見」を世間に届けるのが、媒体やる意味でしょ? 

単に、何分何秒に誰がどんな勝ち方しましたってのを、文章で実況中継するのが「公平中立」だとは、微塵も思わないですから。もし、どーしてもそういう物をご所望なら、試合のPPVを音声消して解説も実況も聞かずにご覧になっていただきたい。

それ以外の、井田なり、井原なりのフィルターを通しての格闘技観が面白いと思っていただけるようであれば、今後ともよろしくご愛読ください。それがばうれびっちゅう「媒体」です。

無論、オープンの掲示板だってやってますから、それ以外のご意見ももちろん賜りますが、言いなりになるとも思わないでいただきたい。

ワタクシはそう言う経営者ですし、そういう物書きでございます、ハイ。

ええ…たまに体重とかは間違えますけどね(笑)

投稿者 井田英登 at 19:13