■少し前に、「外人」か「外国人」かという問題が、ウチの掲示板で議論されていたんですが、さらに踏み込んで、ロシア人格闘家の名前の表記問題についてこんな事を書いておられる方を発見。
大野さんはロシアSFの研究家で、SFマガジンにも執筆されてたみたいだけど、実は格闘技ファンでもあったんですな。ちょっと勝手にびっくり。
確かにこの呼び名の問題は厄介で、僕もアメリカに行くとよくホテルなんかの予約の時に、「アイーダ?」とか呼ばれてしまうのだね。これは実話。
「井田」のローマ字の表記は「Ida」なんだけど、向こうの女性名の「アイーダ」と全く一緒なわけで、女かと思って呼んだら、ムクつけきおいらが呼ばれてひょいと顔をのぞかせると(笑)。
そこでフロントの人間は、頭が疑問符で一杯になっちまうわけですね。
「you , Ida?」とか声が裏返ったりもザラで(笑)
アメリカの事、ゲイとかの存在はおなじみでも、女性名表記の外国人、その上見た目はストレートとくれば、ちょっと混乱するのかもしれない。
ちなみに、この「Ida」ってネーミングは、NYの知的なバンドの名前でもありましてね。そのバンド名が気になって、実際にそのバンドのボーカルのソロライブなんかを、NYにいったときにニッティングファクトリーで見たんですが、フォークベースのウィスパー系っつーんでしょうか、非常に繊細で趣の深い音楽をやってて、今やすっかりファンだったりするのね。全然話と関係ないけど。
もちろんこちらも、発音は「アイーダ」。
仮に僕がファイターで、UFCとかに出るとして、英語読みで「ヒディート・アイーダ」とか呼ばれても、ちょっと気合い入らない部分あるなー。
つーことで、この問題についてPRIDEさんはわかりましたか?(三角窓口@本の雑誌風)
でも、ホントに知りたかったことは、そんなことじゃなくSF作家のストルガツキー兄弟はもう新作を書いてないか? なんて話なんですけどね。
実質文学的部分を担当してた、兄のアルカージイ氏が1991年に死去しちゃってて、もう新作は出ないって判って、ちょっとショック。旧ソビエト体勢が終わって、現代ロシアの自由体制で彼らがどんな作品を書くかちょっと知りたかったのにな…。残念。
また、格闘ファンには関係ない話でした。
■ちなみにワタクシ、本日、晴れて41歳になりました。
■この二月に亡くなった故岡本喜八監督のほぼ全作品が、4月からスカパーの日本映画専門チャンネルで放映されるらしい。喜八映画は、僕にとって、この世で最も敬愛するものの一つ。いよいよ懸案のハードディスクレコーダーを購入せねばいけなくなったらしい…。
こりゃあ、バースデイプレゼント for myself かなあ?
ボビー司会で、お台場収録と来たか。
あれこれ背景に思い巡らすと、結構怖い作りなり。
番組自体は、ご存知TBSの「筋肉番付」のサスケニューバージョンですな。
フジ放映ってのがTBSに完全に喧嘩売る作り。ドリマックス樋口潮さんの新会社だろうしね。製作の「モンスター9」って。(「筋肉番付」の売り物だった巨大跳び箱からでしょ>会社名)。
TBS後援でやってた「マッスルミュージカル」もフジに移管でしょ。
間に挟まったK−1の立ち位置が微妙なんじゃないかなー。
フジとの関係修復は明らかだし、でもMAXとDynamite!!やってるTBSは当然大事だろうし、その辺の裏事情も含めて見るとさらに興味深い番組ですね(笑
番組の中身的には第二ステージクリアした人間がゼロだったってのが、なんともはや。結果自体はガチかもしれないけど、今回は特番で、来週からの番組開始(4/3)に向けていい引きになったなと思う(笑)←元TV屋なんで見る所が嫌らしい。
そーいや、現場にノブ君が応援に行ったらしいけど、途中から見たんでわかんなかったな。
■故人を知る人のコメントの大半が「彼らしい死に方」的なトーンの、諦め半分、微苦笑半分のコメントでまとまってる中で、吉村海坊主こと吉村智樹がただ一人「もう誰も酒を飲むな」と泣き崩れたような文体で、遺された者の痛切な苦悶を表明している。刺のように刺さる一文で、異様にリアルでもある。
ファンの立場から誰かを見上げてしまった人間の、愛憎相半ばした、胸をかきむしるような想いが伝わる。これ読むだけでも、お値打ちの一冊。
対照的だったのは、モブノリオの作文。対象が見えていないし、書くべき事も何も無いのがミエミエ。そもそも文学賞に屈折しまくったルサンチマンのあった中島らもを、なんで彼に語らせたかったか、この部分に関しては編集者の意図を疑う。はっきり言ってしまえば「場違い」。
例えて言うなら、「たこ八郎の弔辞をアイドル歌手に読まれてもなあ」…って感じ。
■河出書房のこのシリーズでは内田百間、岡本綺堂、山田風太郎、山口瞳、中上健次なんかの懐古特集ものがよくて、ポロポロ読んできたんだけど、改めて考えてみると「a guidebook to young persons about dead writers」って感じで物故作家ばっかりなのね。らも氏の登場もその路線?
そういえば、大昔に別冊新評とか、別冊面白半分とかの作家読本があって、その流れもあるだろうね。びっちり一冊作家の特集する雑誌ってありそうでないから。アレは当時の現役作家ばっかりだったけど。
で、このシリーズの面白い所は、作家にこだわらずにプレスリーとかジミヘン、植村直己なんかも取り上げてる所。らも氏はまだ仏さんとしてはホヤホヤだけど、死人特集のシリーズと見ればフォーマット的には正しい訳だ(笑)。
物故つながりなら、70年代に河出のスター作家だった広瀬正とか、あと開高健に半村良とかもやって欲しいなあ。だんだんそういうのが重なって「死んだらKAWADEの夢ムックで特集されたい」みたいなのが作家の夢になっていったりすると面白いねえ。
でも、シリーズに出て来てる鈴木清順も江口寿史も庵野秀明も押井守も一応生きてるか…まあ、その辺はアレだ、おむつ、おむつ、おむつ…
■それにしても、わかぎえふ。
没後の週刊誌のインタビューにはしたり顔で出ていって、肝心の追悼本に出て来ないって、どうよ?
当事者同士いろいろ経緯はあったんやろけど、やっぱ好きになれんなあ。
第二次大戦前のパリ、比類なき快楽追求者・ローマ王ヘリオガルバスの物語を描きつつある文学者アルトナン・アルトーの前に、一人の日本人によって、織田信長が殺人淫楽者で両性具有であったという異端の説を記した草稿「信長、あるいは戴冠するアンドロギュノヌス」が差し出される。その書を入手せんと躍起になる第二次大戦前のナチスドイツと、謎の日本人・総見寺の暗躍。知らず知らずに謀略ドラマのまっただ中に巻き込まれて行くアルトー。独裁者ヒットラーの躍進の背景に、この悪の書が果たす恐るべき役割を描く伝奇ロマン。
好きですねー、こういうの。ブクオフの100円棚での発掘なんで、今時の新刊じゃないけど。冒頭を立ち読みしただけで、ぐいぐい引き込まれてたもんなー。
とはいうものの、僕の好きな現代史秘話みたいな部分はあんまりフィーチャーされてなくて、もっぱら作者の筆は“書物内書物”であるの、血にまみれた異形の織田信長像を描き出す事に費やされる。
個人的な感想としては、半村良と山田風太郎の間を縫いながら、ちょっとどっちにも振り切れなかった感じ。様々に繰り出した歴史的事実と妄想のピースのマッチングにもちょっと難あり、といったところか。膨大なアイディアと奇想が矢継ぎ早に繰り出されて、非常にスリリングではあるのだけれど、その一個一個が未消化で、完全に腑に落ちきったとは思えないものが残る。
具体的なエピソードをそれぞれ倍の量書いて、運動量で読者を引きずり回せば、同じ材料でも十分納得を引き出せたのかな。当然それを水増しなしに面白く読ませる力量が問われるんだろうけど。
その意味では、いくつかの核心部を、さらっと現代編の「語り」で処理してしまった部分が、ヘッドアレンジで終わってしまってる感じ。現代(正しくは第二次世界大戦前)の登場人物をカットバック的に挟んで、歴史の闇に光を当てて行くスタイル自体は好きなんだけどね。山田風太郎の忍法帳的シーンとの整合感が薄くなっちゃってて、これも難点か。いっそ、歴史編と現代編を切り離して二部作みたいにしちゃうと、すっきり読めたのかも。
でも新人の第一作としては十分すぎる成果。「日本ファンタジーノベル」大賞受賞ってことで、その枠の性質を考えての現代劇化だったのかもしれない。ストレートな伝奇時代小説だとインパクトが弱かったかもしれないし。そのせいか、受賞後のこの人の嗜好はどんどん歴史ものに収束していった模様。この続編にあたる作品も秀吉を描いてるけど、もう現代劇へのフィードバックはやってないみたいだし。
スパイ物、伝奇物好きの僕としては、ちょっと残念。
このところ遅ればせながらファンキー物のオルガンジャズを発掘中。今日は、近所の中古屋で大量にグルーブ・マーチャントレーベルの出物を発見して、小躍りしてしまった。
ジミー・マクグリフの「Fly Dude」とか、リチャード・グルーブ・ホルムズと組んだ「GIANTS OF ORGAN IN CONCERT」とかを総ざらいしてくる。まあこの辺は評価も定まってて、グルーヴィさ満点。ただMM&W(メデスキー、マーチン&ウッド)とかJTQ(ジェイムズ・テイラー・クァルテット)みたいな今時のオルガンファンクのほうが、ピンと来る。音も張り切って歪ませ過ぎちゃうの? そのオルガン風邪ひき?みたいな(笑)
むしろ一緒に買った同レーベルのラモン・モリスの「スィート・シスター・ファンク」がすばらしかった。これは、事前情報なしの衝動買いなんだけど。この人、70年代後半のフュージョンに押さて低迷時代のジャズメッセンジャーズのテナーを務めた人だというんだけど、JM時代のレコードは聞いた事がない。これが唯一のソロ名義作品らしく、普通ならハズレの予感ありありの代物。ところが、これが総毛立つほどよろしい。(髪の毛ないですけど(笑))
いかにもJM出身らしいキメキメの二管ユニゾンのハードバップ風な出だしかと思ったら、うねうねのソロフレーズを連発して、みるみるスケベなファンキー方面へ引きずり込んでくれる。表題曲の「スィート・シスター・ファンク」なんかは、ワウを効かせたギターのカッティングがお洒落な、ちょっと70年代ののハードなブラックムービーのサントラにでもありそうな曲で、ありもしない追跡シーンとかが脳裏に浮かぶ。オルガンも脇に徹しながら、主張する所はツボにはまりまくってていいし、ベースのウネリが凄い。全体になんか喉を焼く酒が欲しくなるような、濃い〜一枚。
つーか、こんなシブいレーベルの発掘を地道にやってる、P-VINEってやっぱりエラい会社だなあ。
ブルース一辺倒だった時代から、ちょこちょこ買わせてもらってるけど、ホント黒筋のいいレコードを出しまくってるのね。もう信念を通り越して、“いい音楽を死なせないぞ”みたいな執念を感じる。
「負け組」「負け犬」といった言葉が流行るのも、結局、現代が競争社会であるからに他ならない。格闘技と言う妥協の無いスポーツが、一般からの希求度を増しているのも、日々人々が社会と言う大きな競技場で「闘っている」という実感を持っているからではないか。
これまでだって弱肉強食の社会構造は厳然としてあったが、その構造は逆に階級や差別という制度で「階位」を設けながら、全ての人に何らかの居場所を与え、「組織内の身内」ということで取り込まれた、“居場所ある社会”と言い換える事も出来るヌルさやユルさが残ったものだった。
だが、個人の人権が過去最高に認められるようになった現代は、生きる上での権利も責任も全て「個人持ち」となった社会でもある。成功するのも、失敗するのにも個人が個人の力量で道を切り開かねばならず、敗者/弱者に対するセーフティネットもほとんどない。
どういう事情があろうとも、資本という大きな一つの「ルール」に従って、“人の生き様に明快に白黒を付けてしまう社会”という言い方ができるだろう。
「資本主義」=金を集めるというゲームであり、行動に動機も要らない。勝つ事、勝負する事が自己目的化しており、全ての価値観を金に集約して行く。
そんな構造の中では、行動に余分なモチベーションもルサンチマンも持ち合わせない堀江氏のような人間が、「勝ち組」として浮上してくる。
堀江式M&Aは、コンテンツの内容がなんであれ「資産価値」があれば買う。買って支配する。そして資本総体として肥大して行く事だけを絶対目的として、脇目もふらない。
だが彼が錬金術の持ち札として振り回す「ライブドア」を見るがいい。このサイト、ポータルサイトとしての質を言えば、まったく“使いで”のないB級品でしかない。
例えば、飯を食うのに「グルメコンシェルジェ」や「ぐるなび」を使うことはあっても、まずLIVE DOORグルメは使わない。元々、負け組として消滅しかかっていた「東京グルメ」を買って、LIVE DOORのコンテンツとして統合したわけだが、あれだけ食い意地の張ったホリエモンのサイトとしては、調査力もないし、情報としてもお寒い。旧来の「東京グルメ」時代以上に散漫な内容となっていて、単に投稿者の脈絡の無い評判記事のみ。写真も無いページがほとんどで、実証性もない。結局現場には人も金も回っていないせいだろう。コンテンツはLIVE DOORの金メッキの看板を掛けただけで、埃をかぶってしまっているのだ。
そのくせ、「店に行ったらLIVE DOORグルメで見たって宣伝してください」と来たもんだ。何から何までユーザー頼り。サイト運営の意図も、制作者の意見や見識もない。彼らがやたらBLOGにこだわるのも、結局「客が勝手に作ってくれる」コンテンツだからなのだ。
正直、そこらの個人サイトの方がまだしも、飯を食う上での指針となるし、そういう腰の据わったレポートを書く人でLIVE DOORのBLOGを使ってる人間はほとんど居ないはずだ。
これが堀江的買収の正体だと僕は思う。
コンテンツとは、その素材にこだわる思い入れや心情、個人の視点、自分がその対象になぜこだわるのか? を突き詰めていく過程で生まれるものではないか。
いわば、食事の旨い不味いの絶対評価を付ける行為ではないのである。語る対象を通して、自らの嗜好であり気持ちを語る、“自分語り”があるからこそ、文章が熱を帯び、そして読者を興奮させる。これは対象が音楽であっても、ブンガクであっても、またスポーツであっても同じ事ではないか。
真ん中に人が居て、コンテンツは成立する。
やらずぼったくりの「勝ち抜け脱線ゲーム」思想では、コンテンツは絶対育たない。
話がすっかり遠回りになったが、実はここで話題にしたいのは、ウルフルズの新作「暴れだす」という曲の話。新しいアルバム「9」で僕は聞いたのだが、シングルカットもされているので、きっと耳にした方も多いだろう。
この曲の主人公になるのは、常に自分の思いの過剰さに、世間との折り合いが上手く付けられない、ちょっと「負け組」サイドのアウトロー。多分、ロックミュージシャンとして様々な浮沈を繰り返して来たウルフルズのボーカリスト・トータス松本のストレートな心情を吐露したものではないだろうか? 僕にはどうしてもそう聞こえる。
“ああ、神様、俺は何様ですか
どうしていつもまちがうのか?
悩みは絶えず、オトナになれず
眠れぬ夜を今夜もまた
ああ、笑ってごまかす、声もむなしく
飛び出していくことも出来ないままに
もしもあのとき心にもっと余裕があれば
今までこんなに人を悲しませずに済んだ”
シンプルながら、切実で非常に深いテーマを歌っている。自分の想いが社会と合致せず、通じて行かないディスコミュニケーション状況へのもどかしさ、そしてそれに抗う事もままならない“不器用な自分”=負け犬である自分への苛立ちを語った歌詞だと思う。
これまで、松本の書く歌詞はどちらかといえば「アホで結構」と、アウトローである事、世間に馴染まない不器用さを逆に誇らしげに歌い上げる“アホアホパワー”主義に貫かれて来たと思う。それは確かに威勢はいいが、ある意味「負け犬の遠吠え」であり、一般社会に世を向けた“仲間内だけのファンタジー”でしかなかったのではないか、とも思う。
彼の中でこの作品を生み出すにあたって、どういう変化があったのかは知らないが、今回松本は、初めて「ダメな自分」「社会の歩調からこぼれ落ちた自分」を直視し、その弱さ、その辛さを直接に言葉にしたのである。
それだけなら、トム・ウェイツ的な「負け犬の繰り言」を賛美するネガティブな歌で終わってしまう所だが、その繰り言の後に続く歌詞は、そんな自己満足では終わらない、突破力をもった強い一節へと続いて行く。
“人のために出来る事があっても
人のために生きる事はできない
ああ、胸が、暴れだす、暴れだす
誰かそばにいて”
今ある自分の限界を知り尽くしながら、そのダメさの先にある自分だけの“確信”を捨てる事ができない。いい子になって、負け犬として社会に吸い込まれてしまう事の出来ない自分の魂が、「暴れだす」という言葉で救い上げられ、そして肯定される。
「誰かそばに居て」という言葉も、決して泣き言や甘えではない。
“負け犬では終われない俺を、認めてくれ”“神が否定しても、そばに居る君だけは認めてくれ”そんな、切実な祈りと希求だと僕には聞こえた。
その意味で、この歌は、今の時代に生きる僕ら「負け犬世代」が、LOSERのままで終われないぞ、という想いでシステムの軋轢に立ち向かう、心のテーマソングとなるのではないかと感じた。
個人的には「何がホリエモンじゃ、くそくらえ」って感じ。誰でも銭金に転ぶと思うなよ、って感じ(笑
その意味で聞くなら、同じアルバムの「バカサバイバー」もいい。バカ賛美シリーズではあるけれど、なんかかつての植木等やクレージーキャッツに通じるパワーがあって、“突き抜けた”感じがいい。
誰か、これ入場テーマソングにしてくれないかな?