Hideto Ida's Blog 〜 時に放浪、日々朦朧 〜

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02/16  牛丼偏向報道 / [Monologue:思索と愚痴]
to牛丼マニアのみなさま
先日は、寒空の中たった一日の「吉野屋」牛丼復活祭の行列ご苦労様でした。

そこで、皆様に吉報を一つ。
モスバーガー系の牛丼チェーン「なか卯」では、毎月三日ペース(毎月15、16、17が「月の中日」で「なか卯の日」だそうです)で牛丼が復活してるみたいですよ(笑)三十日に三日の割合ですから、月の十分の一は牛丼が食えるわけで、かなりレア度下がったんじゃないですか?(笑

かくいうワタクシ、なんで急に牛丼話かと申しますと、昨日の夜中たまたま「なか卯」しか周囲にない状況で、モーレツに腹が減ってて一杯食うことにしたんですね。しかし、これ驚きました。なにかと大騒ぎの種になる某大手より、遥かに肉質もいいし、タレの味から米まできっちり美味しかったと思います。「吉野家牛丼復活」に並んでた人たちは何処にいったんだろうと思うほど、行列もありませんでしたし(これは時間帯もあるか(笑))。

こういう現実があるのに、なんでニュースは「吉野屋」なら大騒ぎで、他は全部無視なんだろう…食いながら、ずっと考えてたのはそんな事でした。実は「神戸らんぷ亭」も「すきや」も「牛丼太郎」も、何食わぬ顔でずっと牛丼出してますしね(笑)。

原因らしきものをつらつらと考えてみるに、報道する側の感覚というのが多いに関係してくるのではないかと。

今、報道記者というのは、ホントに高学歴のエリート諸君の仕事になってるんですね。たとえば殺人事件があっても、タクシーとか社車でホイホイ現場に乗り付けて、ちょこっと現場に行ってカメラマンの絵作りの立ち会いみたいな取材をして、あとは警察発表で「答え合わせ」をして、またタクシーの中でせっせと記事を書いてるわけです。

格闘技系で言えば、現場に来ても直に会場では試合を見ないで、記者控え室のモニター前で、せっせと結果のトコだけ空けた“予定原稿”を書いてる記者が居たりしますけど、まさにあんな感じです。

そんな彼らの書くもっともらしいニュースって、どうにも信用できないんですね。

普通、殺人現場にタクシーで乗り付ける犯人なんか滅多に居ないわけで。
何か暗い想念を胸に秘めて、現場までの道のりを一歩一歩憎しみなり悪意なりを煮詰めながら歩いて来た人間じゃないですか。その内面を想像してみようともせずに、ただ機械的に記事を書いてしまう記者が多数存在する。それでいいのかなと思ってしまうわけです。

例えば今回の牛丼騒動なんかでも、早い話が「アメリカ産牛肉輸入停止」の騒動の、一番判りやすい切り口として牛丼に焦点を当ててるわけで。なにも、牛丼自体がニュースな訳ではないじゃないですか。

ただ最大手の「吉野屋」」の場合、その店舗規模に準じた量が調達できないのが祟って牛丼が販売できない。そこに業界二位三位の各社が、牛丼以外の新規商品を開発してシェアを食い荒らしている。そういう悲喜こもごもの構図が独立して、おもしろおかしい風のニュースに加工されちゃってるわけですね。嫌な言い方をすれば、輸入牛肉問題なんか二の次で、業界一位にあぐらをかいて来たお旦那が、業界の変化に取り残されて窮地に陥っているのを、冷笑してる報道になっちゃってるんですね。

独自の調達ルートを開拓して、ちゃんと牛丼を出し続けてる他社とかは、「無い事」にされていたり、紹介されてもあくまで、「世間から牛丼は消えた」というあらかじめ作られたストーリーの範囲内。

こういう“製造過程”で日々ニュースってのは「作られて」いるのだなと。

「オハナシ」優先で、事実を濾過して残った「真実」なんか誰も求めてないんだなと。

本来、食い物の記事を書くのにまず大事なのは、まず「自分が食って」感じた事じゃないのかなと思う訳です。仮に社会面の記事でも、記者自身の生活の中で「牛丼」がどういう位置づけであるのかが、行間にであっても見えて来るようでないと嘘くさい。

自分の取ってる給料に対して、牛丼一杯の割合がどれだけで、どんなシーンで自分はそれを食い、市場から消えた事でどんな影響を受けたのか。そんな書く側の立ち位置がはっきりしてる記事じゃなきゃ信じられないし、書き手の人間としての五感が感じられない記事なんか、読んでも面白いとも思えないんですね。自分も書く側として、こうならないように気をつけなきゃと、月並みですけど思ったりして。

まあ、牛丼一つに大仰な言い草ですけどね(笑


投稿者 井田英登 at 19:46


02/15  カキタテラレルモノ / [delight:愉悦と糧食]
ようやく咳が出なくなって、外を出歩いても悪寒に脅かされる感じがなくなってきた。三週間にわたった闘病生活も、どーやら終わりが近いらしい。

つーことなら、栄養を付けましょうというお誘いをいただき、某隠れ家のレストランへ。(ここはもったいなくて、ちょっとネットなんかで教えられない(笑))

ここで出してもらった料理が、すごかった。アイディアに溢れていて斬新なんだけども、非常に理にかなっていて、プロの仕事はこうでなければならないと毎回感心させられる。

舌の上の快楽とともに、脳に刺激をもらう感じ。

翻って、格闘技イベントの会場でこんな興奮をかんじなくなって久しい。
職業人としては明らかなピンチ。
もっと、俺にアドレナリンをくれ。

投稿者 井田英登 at 19:47


02/14  なぜ闘うのか? / [contact sports:格闘と葛藤]
相変わらず驚くほど治らないこのインフルエンザ。
仕方が無いので、ずっと家でおとなしくしているしかないのだが、現場を離れていると思う事も多い。

このところずっと考えているのは、「なぜ格闘技なのか」という問題。
格闘技サイトを主催し、格闘技関連の文章を書き、その他ビジネスでも格闘技関連の商売をいくつか手がけて、世間的にも“カクトウギの人”ということで看板が掛ってしまっている僕だが、その“何故”に明快な答えらしきものが無いのが現実だったりする。

確かに物書きになりたいという志望はずっとあった。
それもあってジャーナル方面で仕事をしてきたわけだが、今、格闘技がメインテーマになっているのは、成り行きに近い。書き手としてはむしろ別に書きたいものがあるし、遅かれ早かれ“一生の仕事”としてそちらをメインにするつもりでもある。

ではなぜ今もこの場所に居て、この仕事をしているのか。
一つには、自分が目撃したこのジャンルの勃興の風景が、最終的にどこに落ち着くのかを見届けたい、という欲望がある。

もちろん、スポーツとして好きであり、今あるこのシーンに愛着もある。
だが、そんなファン意識よりも、「“格闘技の象徴するべき何か”が我々の目にしているシーンには、まだ存在しない」事、それが格闘技ジャンルを言葉にする仕事に、僕を踏みとどまらせている最大の理由では無いだろうか、最近頓にそんな気がしてならなくなってきた。

通り一遍の言い方をすれば、格闘技はゲームであり、スポーツだ。
だが、人間同士がお互いを殴り合い、関節をねじり上げるという過酷な方法でしか成立しないスポーツというのは何だろう?

本来文化の文脈から外れた“暴力”を取り込んで、あえてゲームとして制御しようとする試み。通常のスポーツとして考えるには、あまりに過剰だ。

その骨子は、他人の肉体を屈服させ、完全にコントロールし、優位な立場に立つかに尽きる。技術としての暴力を“成文化”して行く競技。かろうじて目を突かない、噛み付かない、金的を行わないといった紙一重のルールで“死”を遠ざける事によって、スポーツとして成立している。ルール=理性を、「殺さない」という最後の一枚まで脱ぎ捨てて、人間が他人に対峙する光景。

格闘技のリングを見つめれば見つめるほど、人は心理の奥の危険な部分に肉薄していくことになる。

この“紙一重”感が、他のスポーツと格闘技との違い、であり、“格闘技でなければ成立しない境地”を生み出す理由でもある。

勝者の雄叫びは、他者を力で制圧した快感に直結する。
一歩間違えればファシズム肯定にも肉薄する、暴虐性を秘めた感情。

しかし、僕らはそれに魅せられ、目を反らす事が出来ない。

「何故人は闘うのかーー何故他人を力で支配する行為が快感なのか」

この問いになんらかの答えを出せない限り、僕はこのシーンから離れる事を許されない気がしてならない。


投稿者 井田英登 at 19:48