今回は連続コラムの最終回ということで、 K-1 WORLD GP と大みそかの「猪木ボンバイエ」の比較を中心に、格闘技における「競技」と「ショー」の縦横軸を分析していこうと思っていた。
だがEXpressの発行二日前になって、驚くべきニュースが舞い込んできた。
皆さんもすでに御存知の通り、RINGSが活動停止を発表したのである。まだRINGS自体は来年2月15日の横浜文体大会を残しており、活動停止後もショット契約の選手を集めてのプロモーション形式で運営を存続するという噂もある。少なくとも来年4月までは所属選手との契約もTV放映も残しているわけで、団体崩壊という言い方はまだ早計かもしれない。
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ただ実際、エース前田日明の引退後、動員の減少、大会規模の縮小は目に見えて明らかだったし、所属日本人選手の離脱あるいは前田代表を巡る個人的なトラブルなどネガティブな話題が相次いだ。そうした過程で、かつて時代のリードオフマンとして格闘技人気拡大の一翼を担ったこの団体が、無残なほどファンの求心力を失うのを我々は見てきた。僕はこの現象の中にも、「競技」と「ショー」の縦横軸の問題が大きく関係していたのではないかという気がしてならないのである。
そこで今週は予定を大幅に変更して、RINGS活動停止問題を中心に「競技」と「ショー」のバランスを考えていきたいと思う。当初予定していたテーマは次号以降に持ち越しとしたい。
■第二次UWF〜初期リングスにファンが見た夢
RINGSの直接の母体は、1988年に旗揚げされた第二次UWFといっていいだろう。新日本プロレスに所属していた前田日明、高田延彦、藤原喜明、船木誠勝、鈴木みのるらが集結し「格闘技としてのプロレス」を追及した彼らの活動は、“Uイズム”なる言葉を生み、当時、プロレスから失われつつあった格闘の迫真性、勝負論を正面に打ち出すことで多くのファンの支持を集めた。
しかし実際のところ、彼らの中にも明快なスポーツ的格闘技へのアプローチはなかったようで、旧来のプロレス技術と興業論との相克の中から、泥縄式にひな形を作り試合を行っていた観がある。
そんな彼らが会社運営などの問題から1991年三派に分裂。高田をエースに旧来のプロレス最強神話への回帰を打ち出したUWFインターナショナル、船木・鈴木・シャムロックを中心にマニアックな関節技合戦を売りにした藤原組が早々に設立された。一人残された前田日明は、Uイズムの中核にあった格闘技色をより明快にした形で、世界的な格闘技選手のネットワークを提唱しRINGSを設立。UWFルールを軸にした異種格闘技戦路線で、U系プロレスファンに「総合格闘技」という呼称を流行させることになった。
正直いって、当時の彼らのスタイルは今でいう「総合格闘技」から程遠い。
現在の柔術やレスリングを基礎にした競技デザインはまだ生まれていなかったからだ。当時のRINGSにあったのは、個々の選手がそれまで修練してきた「打/投/極」のばらばらの技術を、統一ルールの元にただぶつけあうだけの原初的光景であった。洗練には程遠く粗削りな技のぶつかりあいは、今となっては失笑ものかもしれない。それに前田の基板となったプロレスの技もまだまだ当
時のRINGSでは有効な技術とされており、大味な逆エビ固めで勝負が決まってしまったりするシーンは、今のファンが見ると説得力に欠けるものに感じるだろう。
ただ技術的には泥縄であっても、RINGS ルールには大きな見せ場があった。それは試合が一発のダウンや一回の極めで終わってしまわないポイントシステムだ。いわばワンチャンスで勝負する今の総合格闘技と違って、ミスを犯した選手が生き残って逆転を狙えるというゲーム感覚の面白さがあった。他団体でも採用されていたが、出場する選手のジャンルの幅が広いRINGSマットでは、ポイントシステムの良さが大いに引き出された。今となっては決着を遅延するだけのシステムとして退屈なものに受け取られるかもしれない。
しかしすぐに決着を目指さず、漫然と技の展覧会が繰り広げられるプロレスを見慣れた当時のファンにとって、ダメージの指標が目に見える形で示されるこのシステムには、目からウロコの面白さがあったのだ。いわばこのルールに隠された大衆的なゲーム感覚が、そのまま「ショー」としての楽しさを生み出していたわけである。
加えて当時のRINGSは、コマンドサンボをはじめとした世界の格闘技全体へ敷延させる「RINGSネットワーク」と呼ばれるビジョンを提示。さらには通常ルール以外での試合を実現する「実験リーグ」がマニアックなファンの嗜好をそそった。ファンとしても、時代の変化の最先端で同じ理念を抱えた “運動体”に参加している気分を味わえた。「世界最強の男はRINGSが決める」というキャッチフレーズがその気分を象徴していると思う。
■「93年革命」の追撃
だがその栄華は長くは続かなかった。1993年、RINGSは突如3つの新興団体から時代の最先端の地位を脅かされるようになる。
まず5月、RINGSネットワークの一部に取り込んでいたはずの正道会館が離脱し、 K-1グランプリをスタートした。
立ち技オンリーながらワンデイトーナメントで“世界最強の男を決める”この大会は、RINGSの内包していたスター主義や世界構想を具現化。素人目にもわかりやすいノックアウト至上主義の決着や、地上波ナンバー1の視聴率を誇ったフジテレビの全面的なバックアップもあり、シビアな「競技」としての認知をお茶の間の観客にまで広げるとともに、「ショー」としても大成功をおさめ、 RINGSを凌駕する存在にのし上がった。
続いて9月には藤原組の船木・鈴木ら若手が中心となりPANCRASEを旗揚げ。
当時1ダウン=3エスケープと設定されていたRINGSのルールに対して、PANCRASEは1ダウン=1エスケープという過酷なポイント削減をはかった。さらにチョークスリーパー、グラウンドでの掌底での顔面攻撃も解禁、UWFからの「競技」性を先鋭化した世界を提示してみせた。特に旗揚げ戦では、勝負が1分以内で決着する「秒殺」が続出、それがそのまま流行語となるほどの勢いを見せ、勝負論の点でRINGSを剣が峰に追い込んだ。
さらに追い打ちをかけるように12月、UFC(アルティメット・ファイティング・チャンピオンシップ)の第1回大会がアメリカで開催された。過激さはPANCRASEの比ではない。いわゆる「なんでもあり」と呼ばれる「バーリ・トゥード(VT)」ルールの登場である。その衝撃的なルール設定は、格闘技というより武道、スポーツというより決闘という地平から発想されたものであり、あ
る意味K-1やPANCRASE以上に「競技」の輪郭を明確にしたものだった。一方でマウントパンチやオクタゴンに象徴される生々しいヴァイオレンス映像がノーカットでTV放映され、その「ショー」的要素が格闘技界のみならず世間一般にも大きな反響を呼び起こした。
「93年革命」とも呼ぶべきこの三団体の追撃によって、「競技」と「ショー」の両面から挟撃を浴びたRINGSは、否応無しに方針転換を迫られる。従来のプロレスを追撃することで倍々ゲームのようにシェアを延ばしてきた“Uイズム”だが、すでに時代はそれを越える新しい局面を迎えていたのである。確かにRINGSは限りなくプロレスの極北を目指して進撃をすすめてきた団体ではあっ
たのだが、その端々にはプロレスから受け継いだ悪弊が色濃く影を落としていたのも事実である。
完全実力主義を標榜しながらも、メインイベンターを中心にしたスター主義が幅を利かせ、試合展開においてもロープエスケープに代表されるように、勝負論よりゲーム性を重視する“遊び”が残っていた。これらはプロレスから格闘技への過渡期には有効なクッションとなったのだろうが、「93年革命」を経て「競技」としてのシビアさを求められる時代を迎えると、古色蒼然としたものに映ってしまう。結局最後までこれらを捨てきれなかったことが、この団体の首を絞め続けた感は否めない。
翌 94年1月、RINGSのメガバトルトーナメントを制覇した前田日明は、Uインターや PANCRASEとの対抗戦をぶちあげることで「ショー」としての充実を模索したが、結局両団体との交渉は実らなかった。また「競技」性の権化であるVTへのアプローチも、シューティング(修斗)が開催したVTJ '95で愛弟子・山本宜久(現・憲尚)がヒクソン・グレイシーに敗れたことで大きく停滞した。
かくして「ショー」としての拡大もならず、また「競技」としての練り直しもならず、RINGSは結局93年生まれの後発団体にトップランナーの座を譲り渡すことになる。さらに97年のPRIDEの勃興を期に斜陽の度を増し、99年の前田の引退で顕著となった。すでにVTベースのリアルな総合格闘競技が、NHB(ノー・ホールズ・バード)あるいはMMA(ミックスド・マーシャル・アーツ)と
呼ばれ世界標準として普及しつつあった当時、RINGSのルールデザインは、「競技」としては詰めが甘く、「ショー」としても刺激に欠けるものとして時代に取り残されてしまった。
観客動員の低下は明らかだった。前田日明という「ショー」の目玉を失ったRINGSは98〜99年、Uインターを離脱した田村潔司を入団させ、RINGS生え抜きの日本人との対決で活性化を図った。しかしちょうどその頃、高田延彦がUイズムの代表としてヒクソンとの対決に乗り出したが、二度とも無残に完敗。リングスの選んだ路線は、すでに伝説の崩壊したUイズムというコップの中の嵐
に過ぎなくなってしまい、かつてのファンの興奮を呼び戻すことはできなかった。
そしてようやくRINGSは93年以来の「宿題」に本格的に手を付けざるを得なくなる。要するに総合格闘技の世界標準であるNHBの導入である。それはこれまでかたくなに鎖国を押し通してきた“Uイズムの牙城”RINGSが、自由な選手市場へも乗り出すきっかけとなった。99年秋、ネットワーク外の選手をも含めたオープントーナメント・KING OF KINGS(KOK)を開催。ついにエスケープを
廃止し、オープンフィンガーグローブの採用、スタンドでの顔面パンチ解禁で一気に「競技」としての先鋭化を図ったこのトーナメントは、ヘンゾ・グレイシー、アントニオ・ホドリゴ・ノゲイラ、ヒカルド・アローナなど、これまで鬼門であったブラジル人ファイターを大量にリングに上げたことで、停滞していたRINGSマットに一気に追い風を吹かせたように見えた。
しかし、結局PRIDEやUFCを通して標準的なNHBを見慣れた日本の多くの格闘技ファンにとって、グラウンドでの顔面パンチを認めないKOKルールは、やはり「競技」としても「ショー」としても中途半端なルールとして、十分評価されることなく終わってしまったのだった。
■そして再び前田は一人になった
加えて、マーケティング能力や資金力に優れ、「ショー」としての性格を明確に打ちだしたPRIDEという巨大プロモーションの成功が致命傷となった。PRIDEには既存の「所属選手」という概念が存在せず、選手寿命への道義的責任を持たない。そのルールで戦うかどうかは選手の覚悟に任せられ、過酷な条件を設定する代わりにギャラは弾む。むしろ選手の覚悟や危険への挑戦が、試合の中
に生死を賭けた緊張感を生み、「ショー」の演出装置にもなる。
一方のリングスは前田自身が現役選手を経て経営者になったせいもあり、選手寿命への道義的責任に敏感だった。だが選手層の固定はイベントをマンネリ化させ、旬の選手を見たいファンのニーズに反することとなる。さらには所属選手の安定した生活を保証するための固定給が、団体経営を徐々に圧迫。この春に相次いだ選手大量離脱も、この経営方針が維持しきれなかった結果であろう。
団体経営の動脈硬化が進んだのは、前田日明のトップダウンでしか方針を決められなかったという「個人商店」的な構造にも原因がある。対するPRIDEはDSE(ドリームステージエンターテイメント)に経営移管した前後から、ブッキング(選手招へい)、広報、営業、会場演出など、それぞれのスペシャリストが分業方式でビジネス展開していく「近代組織」となった。森下直人社長は絶対的なリーダーではなく、スタッフをとりまとめる調整役でしかない。
新日本プロレス時代、ワンマンリーダーのアントニオ猪木の背中を見て育った前田には、PRIDE型の組織をイメージできなかったのかもしれない。だがもしマット上で追及された「RINGSネットワーク」が、団体経営にも似たような形で反映されていたならば、今の惨状には至らなかったのではないだろうか?
何しろ選手に限らず RINGSのフロント陣・社員には優秀な人材が多数いた。例えば前田の高校時代の空手の師匠・田中正吾氏は、新日本プロレスからRINGSに至るまで独自の格闘技観で前田の理論武装を助け、 TV中継では解説も務めるなどファンの信頼も厚かった。社長を務めた黒田耕二氏は 興行界へのルートも太く、興行団体としての基礎を築くのに欠かせない存在だった。 そして日本サンボ連盟理事長の堀米奉文氏はRINGSのスポーツ団体としての権威の後見人の役割を果たしていた。
またその下で働いていた社員達も、今や格闘技界の中枢を占める人材にのし上がっている。PRIDEを始め各団体に優秀な選手をブッキングすることで知られる“ブッカーK”こと川崎浩市氏、DSEの広報・石黒雅史氏、日本修斗協会事務局長の若林太郎氏、さらに前田の個人マネージャーを務めた内田統子女史も現在はノゲイラ、スぺーヒーらをブッキングする立場となっている。
しかしRINGSが活動休止を迎えた今、その屋台骨を支えた彼らの姿は、全て南平台の事務所から消えている。
第2次UWFの解散の時と同じく、前田はまたも一人になっていた。それぞれの理由はあるだろうが、結局リーダー前田の示す方向の中に己の居場所を見いだすことができなくなったため、彼らはRINGSという船を降り、自ら新天地を求めることになったのだろう。皮肉にも彼らの離散が結果として格闘技界全体の発展をもたらしたというのは言い過ぎだろうか。
「格闘技界の梁山泊」とも言うべきこの陣容を見るにつけ、もし彼らがそのままRINGSに残っていれば、RINGSは今のPRIDEどころではない成功を手にしていたのではないかという気がする。
■時代に追い越された前田日明の夢
こうして分析してみると、RINGSの10年は「競技」と「ショー」の軸の間を揺れ動き、定まる場所を持たなかった歴史といえるのではないだろうか。
ファンは試合内容やスター選手を見るためだけに高い入場料を払うのではない。その向こうにある団体のポリシーや、観客に提供しようとするビジョンに共感することで、初めて会場に足を運ぶのである。その意味で、ファンを巻き込んだ形でUWFを“運動体”と呼ばれる存在として成功させ、RINGSの初期に至るまで「格闘技の時代」の礎を築いた前田日明の功績は大きく評価すべきである。
現に各団体で活躍する選手に「ヴォルク・ハンの関節技に魅了されて格闘家を目指した」「リングス○○という支部を学校に作った」という過去を持つ者も多い。RINGSの蒔いた種は、確実に格闘技界に鮮やかな花々を咲き誇らせている。
だがRINGSは時に「ショー」的な価値観を重視しすぎるがゆえに「競技」としての先鋭性を失い、また「競技」としての世界観にこだわりすぎて「ショー」としてのダイナミズムを失った。この繰り返しでRINGSは運動体の軸が定まらず、結果ファンも離れていった。そしてRINGSの掲げた“世界最強の男を決める”コンセプトは、いつの間にかPRIDEが具現化させていた。こうした形でRINGS
が徐々にその運動エネルギーを使い果たした末、ついに再点火できないまま「活動停止」してしまうことは、かつて一ファンとして夢を膨らませた身として非常に辛いものがある。また一格闘技メディアを主宰する立場としても、ファンとリングをつなぐ一本の道になることができなかった事に大きな悔いが残る。
「こないだのPRIDEの大会なんか、RINGSの大阪大会やんけ」
今年9月24日に大阪城ホールで開催されたPRIDE.16を指して、前田日明はそう発言したと聞く。確かにKOK王者ノゲイラ、無差別級王者アイブル、ミドル級王者アローナ、そして愛弟子の山本憲尚といったRINGS離脱組が集まり大成功をおさめたこの大会を、彼がそう表現したくなる気持ちはわからないでもない。RINGSが同じ人材をそろえていた数年前、その栄華を達成できなかった事
への悔しさの素直なあらわれだろう。だがその言葉を聞いた時点で、そのわずか3ケ月後に前田の口から活動停止が発表されるとは僕は思いもしなかった。
今から思えばあの言葉は、前田が活動停止を暗示した事実上の「敗北宣言」だったのかもしれないと思うと、胸が痛む。
思えば前田日明という人は「ファンの意識改革」を常に語ってきた人でもある。「理想と現実は違う。何かを変えていくんやったらリング上の現実を検証してからや」というのが、 前田の口癖でもあった。先鋭である事よりも、ゆるやかな「草の根活動」でファンを巻き込み、運動体としての前進をイメージし続けたこの人のビジョンは、ある意味70年代前後に社会変革を夢見た若者たちの方法論にも重ね合わせることができるだろう。
しかし既に時代は、個々人のばらばらな欲望のベクトルを「マーケティング」という形で統合する時代へと変化していたのである。
イズムよりも、統計的に直接的な需要を分析し、そしていち早く満たす。そんなフットワークの軽いプロモーションこそが「時代の気分」を捉え支持される。こうしたトレンドを読み切れなかったことが、RINGSの、そして前田日明の最大の誤算だったのではないだろうか。
※BoutReview EXpress [Weekly] Vol. 009 (Sat, 29 Dec. 2001)より