Hideto Ida's Blog 〜 時に放浪、日々朦朧 〜

::
Home > BoutReview Blog:井田英登「時に放浪、日々朦朧」 > ArchiveList > 2001-12 > 2001-12-15
12/15  「【格闘技】と言う名の曖昧な領域」(1) / [contact sports:格闘と葛藤]
最近、雑誌「格闘技通信」(ベースボール・マガジン社)が二号連続で「プロレスと格闘競技」の境界線を明確にしようとする巻頭特集を掲載した。

朝岡編集長の“NO FAKE”路線に沿ったキャンペーンの一環だろう。前編にあたる291号では11月のPRIDE東京ドーム大会での高田延彦 vs. ミルコ・クロコップをテーマに上げ、兄弟誌・週刊プロレスのレポートを、プロレスと競技である格闘技をごっちゃに
したイメージ報道と位置づけ批判した。また後編である292号では、修斗を経てパンクラスに参戦、「プロレスラー」を自称する純血パンクラシストを撃破し続けるGRABAKAの存在を軸に、パンクラスは“プロレスですか?格闘技ですか?”という問題提起を行なった。ほかにも291号の記事に反論した週刊プロレス・佐藤編集長と格通・朝岡編集長の企業内対談などが掲載されている。

まず率直な感想を言わせてもらえば、格闘技報道の最前線を20年近く走り続けてきた業界のリード雑誌にして、いまだにこういう視点で特集を組まねばならない段階なのかと思い、がっかりした。

興業をレポートする形で雑誌を成立させている業界だけに、こうしたテーマを表面化させて特集を組んでいくのは確かに冒険かもしれない。フィックスドファイト(結果の決まったデキ試合)と競技の線引きなど、第三者にはそう簡単にできるものではない。だがそれでもなお「プロレスを読み解く」という行為を試みるなら、どうしてもそのダークゾーンに踏み込み、事実関係の立証を行なわなければならない。関係者の証言や八百長行為に関わる金銭授受などの事実を立証できるならともかく、リング上のアクションのみを捉えて印象評論で記事を構成しても、それは単なる“感想文”であり、もっと言うなら報道手法において、
“書く側の八百長行為”にしかならない。

あえてこういうアプローチを行なっているライターとして田中正志らがいるが、彼にしてもベースはアメリカのプロレスビジネス周辺であって、日本国内の状況に真正面から踏み込むことはできていない。最近、元・新日本プロレスのレフェリー、ミスター高橋が書いた「流血の魔術 最強の演技 すべてのプロレスはショーである」(講談社)が大きな反響を呼んでいるのが唯一の例外だろうが、これにしても半ばインサイダーの立場から事実関係を検証したもので、ライターやメディア発のものではない。

もし仮に、田中角栄の汚職を暴いた立花隆のような気鋭のジャーナリストが格闘技業界にいて、日々の取材でなんらかの不正を発見したとしても、彼がこの業界にいるかぎりそれを記事にすることは困難だろう。

なぜなら、格闘技興業の多くは事実上プロモーターが全面的に仕切っている私的イベントでしかなく、コミッションが存在して運営を統括し、不正行為の監視に目を光らせているほうが稀で、完全な報道の自由が保証されていないためである。したがって、プロモーターが取材拒否すればその記者や媒体は会場に入れなくなり、その後の取材は頓挫する。こうして興業を盾に取られている形の業界情報誌には、一般新聞や週刊誌のような報道機関としての役割を期待できない構造になっているのである。

格通の特集に話を戻すと、「プロレスは競技ではない」と主張しながら、実際は必要十分な定義をできていないこの特集は、正直“ぬるい”と言わざるをえない。詳細な内容に興味のある方は実際にこの雑誌を手に取ってもらえばいいと思うが、週プロ編集長との身内対談の内容を見れば彼らのスタンスは明白だ。結局プロレスの存在を“物差し”にしなければ“格闘技”という己達の関わっているエリアを明確化できないのだ。対立概念に「プロレス」の存在を挙げたことからは、“格闘技雑誌”という従来曖昧なエリアの存在を自己正当化する思惑以上の、本質的な意義が感じられない。

たしかに1980年代、格闘技雑誌が創刊され、プロ格闘技が勃興しつつある時代状況の中であったなら、その物差しもプロレスから派生しつつあるサブジャンルの現状を伝えるのに有効だったことは事実だ。

当時プロレスから派生する形で生まれたUWFのムーブメントによって、日本の格闘技ビジネスは足場を固めてきた。つまり本格的な格闘技術の攻防を見たいと望む“プロレスファン”の目を、既にある格闘技という地味な領域に呼び込むことで成立してきたビジネスなのである。格闘技マスコミも常にプロレスを対立軸の向こうに置きながら、プロレスファンにむけてのメッセージを紡いできたのである。

しかし1990年代以降、格闘技ジャンルの在り方は明らかに変わった。地上波テレビ局主導のK-1やPRIDEなど大型プロモーションの出現や、“Xスポーツ”色を前面に押し出しストリートカルチャーとの接近を計った修斗の躍進によって、既にプロ格闘技はプロレスのサブジャンルであった時代を、いわば「通りすぎて」しまったのである。

もはやプロレスを対立概念に使わなくても、ボクシングや相撲と同じく“格闘技”というドアがストレートにファンに向けて開かれている時代なのだ。その意味で「格闘技通信」の特集の切り口は時代遅れの感がぬぐえない。裏読みをすれば、プロレス雑誌を並行して発刊しているベースボール・マガジン社の「コップの中の嵐」を、格闘技界全体のパラダイムに援用しようという強引さを感じてしまう。

そんな新しい時代であるにも関らず「格闘技マスコミ」と呼ばれている媒体は、“プロレス村・左派(要するに勝敗とリアルファイト性にこだわるタイプ)”をターゲットにした媒体から脱皮できていない。

K-1やPRIDEや修斗に興味を持つきっかけが、フジTVのスポーツニュースや、格闘家がモデルを務めるファッション誌にあるような、非“プロレス経由”のファンが、素直に読める専門誌がこの業界に存在するだろうか? 

かつてF-1ブームのころ、雨後のタケノコのようにF-1専門誌が出現した状況とは明らかに違う。格闘技雑誌は、一度はプロレスの
門をくぐりながらも途中でリアルファイトに目覚めた“選ばれしファン”の欲求を満たすことに追われ、プロレスを知らないままK-1等にハマった層にほとんど訴求力を持たない媒体となってはいないだろうか。

格闘技エリアの中でも最も左派であると言える専門誌にしたところで、「この世界観こそが格闘技の本質だ」という明確な主張を示せていない。

ただ、プロレスを「非格闘技」として埒外に置く消極的な主張のみをもって、自己のアイデンティティとしている。この現状こそが、格闘技マスコミを貧しくしている元凶だと断定して構わないだろう。


※BoutReview EXpress [Weekly] Vol. 007 (Sat, 15 Dec. 2001) より
                           
投稿者 井田英登 at 01:00