花道の奥のスクリーンが緑の光に染まり、左右のゲートから花火が吹き出す。そこに黒くたくましい男のシルエットが浮かび上がった。闇をレーザー光線が切り裂き、スポットライトが、UFCヘビー級チャンピオン・ランディ・クートゥアの姿を捕える。上から赤/白/紺の三色に染め分けられたジャージ。それはまさに星条旗の色でもある。前回まで彼がまとっていた、ロシアモダニズム風のデザインで拳を描いたチーム・クエストの灰色のシャツは姿を消した。
客席からは一斉に「U.S.A.」「U.S.A.」と国威を高揚する声が沸き起こる。
見れば、入場ゲート横のスクリーンには、青で描かれた「RANDY COUTURE」の名前に星条旗を思わせる★印が幾つも染め抜かれたCG文字が、あたかも風に揺れる国旗を思わせる動きで左右にうねっている。これは明らかな国威高揚のためのシンボリズムを、
強調している。
前回の9月のUFC33では、ニューヨークを襲ったあの国際貿易ビルテロ事件の直後とあって、メインイベントに登場したライトへビー級チャンピオン、ティト・オーティスが、星条旗を片手に入場したことが話題となった。そして今回、やはりアメリカ国籍を持
つチャンピオン、ランディ・クートゥアが星条旗のシンボリズムを露骨に打ちだした姿で入場してきた事は、まったく同じ文脈で捕らえられるべきであろう。
それはいわゆるプロレス的世界観で、必ず勝つべき正義のヒーローとしてティトやクートゥアを「ベビーフェイス」になぞらえた演出にほかならない。無論、リアルファイトの殿堂であるUFCに組織的なフィックスト・ファイト(勝ち負けがあらかじめ決められた八百長試合)は存在しないし、あってはならない。したがって、ティトやクートゥアがその演出意図通り、華麗な勝利を飾るという保証はどこにもない。しかし、この演出はアメリカのエンターテイメントの首都とも言える街ラスベガスで行われたこの大会の観客に、そして、アメリカ各地でPPV放送を見守る視聴者に対して、「貴方達が感情移入すべきヒーローはこの男です」という意図的な誘導を仕掛けたことは間違いない。
オリンピックの例を引くまでもなく、スポーツの世界にナショナリズムは付き物である。
観客はただスポーツをする選手の姿にただ感動するのではは飽き足らず、応援するべき対象に対して、なんらかの感情移入をほどこす「理由」を求める。それは年齢であったり、性別や人種であるかも知れない。自分自身に選手を引き付けて、依怙贔屓をする理由があってこそ、人は選手の勝敗をわが事のように捕らえ一喜一憂することが出来る。ナショナリズムはそのための最大の要素である。国旗はためく下、勝敗を争う選手達の姿は、自らは戦うことの無い人々の心に、本来ならいわれの無い仲間意識を植え付け、そしてその共同体の代表であるかのような意義付けを行うわけだ。
だが、それは決してスポーツにとって幸せな感情ではないように、僕は思う。
スポーツ選手は本来孤独で、インディペンデントな存在だ。誰のためでもなく自らの可能性を賭けてのみ闘う。誰の期待も背負う必要はないし、ただ結果を出した事においてのみ賞賛されるべきだ。にもかかわらず、そのかれらを「国の代表」に祭り上げ
てしまうナショナリズムの発想は、その努力や、到達点に達した栄誉を選手個人のものから、ある集団の栄誉へと収奪しようとしているようにも思えてならない。
まして、国家対抗戦でもなんでもないUFCの会場で、個人選手がその属する国籍によって支持されたり、逆に敵役を背負わされたりすることに、僕は大いなる矛盾を感じた。試合開始前から満場の期待を背負って入場したクートゥアに対して、ブラジル国旗を
背に入場したペドロ・ヒーゾへの歓声の如何に小さかったことか。UFC随一といってもいいストライカーであり、これまでその実力に比して、運に恵まれることの少なかったこの28歳の若きチャレンジャーが、仮にアメリカ国籍をもった選手であったなら、こんな扱いはきっと受けなかったに違いない。
この男はタンク・アボットやダン・スバーンといったUFCの歴史的イコンである選手達を完膚無きまでに葬り去り、ケビン・ランデルマンや高阪剛といった実力者達との死闘をくぐり抜けてきた選手なのだ。本来彼個人に寄せられるべき期待は、根拠のないナショナリズムの前に無とされ、まるで闘牛牛のようにただ壮絶なる死を求められる存在に貶められてしまっている。
まるでその姿は、アメリカ合衆国大統領の一方的な断定の元、国際的テロリストとして死を宣告されたあのムジャヒディンのようでもある。
観客は求める。
正義の名の元に、血を、そして粛正を。
まるで、あの傲岸なジョージ・ブッシュのイタコを勤めるかのように、38歳のベテラン選手は、観客の無意識の願望を一身に背負ってオクタゴンに君臨した。あの不器用で洗練されないキックが、ピーター・アーツのスネをも破壊した若きストライカーの
内モモをたたく。何故打ち返さない?ヒーゾ? 僕はカメラを構えながら、何度も苦汁の思いを飲み込んだ。
ダン・スバーンを一発でマットに沈めた、ヒーゾのあの強力なローは何故影を潜めてしまったのだ。確かに、モーリス・スミスを影の軍師に迎えたクートゥアのスタンドでのスキルは、両者の最初の対決となった今年五月の試合と比べれば、格段の進歩を見せていた。出入りのリズムはよくなり、腰の入ったパンチにもキレがある。しかし、それにしてもヒーゾの精彩のなさはあんまりだ。
ただ立ち続ける生きた標的のようにクートゥアのパンチに押され、有効な打撃を返すことが出来ない。下がり続けた末にクートゥアの突進を引き込みで迎えるのみの展開が続く。そしてグラウンドに組み敷かれたヒーゾの顔面が、クートゥアの振り降ろす鉄拳に、そしてヒジにガンガン切り裂かれていく。まるでカンダハルの町に降り注ぐ、アメリカ空軍の空爆の嵐のように。無抵抗のヒーゾ。その姿は、五月の対決で何度もクートゥアの腰をぐらつかせた、あの鬼神のようなキッカーの姿からはあまりにも懸け離れた、弱々しいものだった。
そして、朱に染まったヒーゾの顔面に、二度目のドクターチェックが加えられた。
レフェリーのビッグジョンが両手を大きく交差させて左右に振る。
ドクターストップ。
星条旗の旗の下、クートゥアの勝利が確定した。
38歳老いたるタカは死なず。
そして28歳の若き王座簒奪者の野望は果たされなかった。
しかし、その栄誉は、腰に巻かれたベルトに対する賛辞の声は、やはりクートゥア個人に対するものではなく「U.S.A.」「U.S.A.」のコールであったことが、僕の気持ちを暗くした。
人はナショナリズムのもと、銃を取り、他国の領土に土足で踏み入り、そして罪もない市民の命を奪う。そしてスポーツの会場においてさえ、その勝利の栄誉を個人から奪い取り、その象徴たる国旗の打ち振られる下に隷属することを望む。
アメリカの勝利。
ジョージ・ブッシュ的中華思想の勝利。
もちろん勝利に破顔するランディ・クートゥアに罪はない。
時代状況、そしてアメリカ合衆国という国が背負った宿痾のようなナショナリズムが産んだ、いびつな光景なのだ。
だが、これは本来UFCが推し進めてきた格闘技の姿ではない。
願わくば、勝利の栄誉も、敗者の奮闘も、全ては死闘を繰り広げた選手達個人に還元される世界を。
僕は苦い思いで、血のこびりついたオクタゴンを睨んだ。
※BoutReview EXpress [Weekly] Vol. 002 (Sat, 10 Nov. 2001)より